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'''乙部館'''(おとべだて)は、[[岩手県]][[盛岡市]]乙部<ref>[http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=141.19981264849&latitude=39.610740116897 (地図閲覧サービス) 国土地理院]</ref>に所在した[[日本の城]]。現在は、宅地や畑地になっている。 |
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2021年5月13日 (木) 22:15時点における版
乙部館(おとべだて)は、岩手県盛岡市乙部[1]に所在した日本の城。現在は、宅地や畑地になっている。
歴史
かつての陸奥国志和郡乙部村に所在し、鎌倉期の弘安3年(1280年)平泉中尊寺経蔵別当 永栄が、弟子 朝賢に譲与に所領の一部に村名が見られ、南北朝期の康永3年(1344年)にも再確認されている。 鎌倉期から室町期にかけて、志和郡東部には、河村氏の一党が居住している。稗貫郡の新堀や大迫に通じる要地で中世の宿駅があり、北の不来方郷(盛岡)にも通じ、北上川と乙部川の合流点にあった。
築城年代は不明であるが、古館は天正年間(1573-92年)の頃、斯波氏家臣乙部兵庫の拠ったとこで、同16年、同氏族滅亡後、南部家臣福士右衛門尉の居城となった。
天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「乙部 平城 破 福士 右衛門 持分」とあり、破却された
脚注
参考資料
- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。
- (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X。