「馬追丘陵」の版間の差分
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'''馬追山'''(まおいやま)は、標高275mの山で、[[北海道]][[空知支庁|空知管内]][[夕張郡]]の[[長沼町]]と[[由仁町]]に位置し、馬追丘陵の一角を構成している。瀞台の通称がある<ref name = HokkaidouKaihatsukyoku.SapporoKaihatuKennsetsubu/>。また、長沼ナイキ基地訴訟の舞台となった場所としても知られる<ref name = Chukyo-College/>。 |
'''馬追山'''(まおいやま)は、標高275mの山で、[[北海道]][[空知支庁|空知管内]][[夕張郡]]の[[長沼町]]と[[由仁町]]に位置し、馬追丘陵の一角を構成している。瀞台の通称がある<ref name = HokkaidouKaihatsukyoku.SapporoKaihatuKennsetsubu/>。また、長沼ナイキ基地訴訟の舞台となった場所としても知られる<ref name = Chukyo-College/>。 |
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'''長官山'''(ちょうかんざん、ちょうかんやま)は、[[北海道]][[空知支庁|空知管内]][[夕張郡]]の[[長沼町]]と[[由仁町]]の町境に存在する標高254mの[[山]]である<ref name = Yuni-Town,History.1972/><ref name = Net-Journalist.Mochida.20090224/>。この山は、[[石狩平野]]南部に位置しており、馬追山等とともに馬追丘陵を構成している<ref name = Yuni-Town,History.1972/><ref name = HokkaidouKaihatsukyoku.SapporoKaihatuKennsetsubu> [http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/kasen/10chisui100/tryuikishi/t1_03_07.html 石狩川流域史 支川編 夕張川流域 開拓初期 暮らし・社会]国土交通省北海道開発局 札幌開発建設部</ref>。 |
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2021年5月14日 (金) 00:13時点における版
馬追丘陵(まおいきゅうりょう)は、北海道の石狩平野の南東に位置する丘陵である[1][2]。「まおい」という名称は、アイヌ語で「ハマナスの実があるところ」を意味する「マウ・オ・イ」に由来する[3]。
概要
馬追丘陵は、最北端は空知管内夕張郡長沼町の東部から、最南端は胆振管内勇払郡厚真町の北西端にまで至っている。全長は約50kmで幅は5~8kmであり、北高南低のなだらかな背斜丘陵を形成している更新世段丘である[1][2][4]。最高点の標高は275mである[2]。JR室蘭線以南の最南部を早来丘陵と言う事もある[1][2]。空知方面ではきらら397等の米の稲作やジャガイモなどの畑作、リンゴ等の果樹栽培を、胆振方面では牛の酪農が行われている。北部の山麓には馬追温泉(単純硫黄泉,16℃)が、南部の山麓に鶴の湯温泉(純食塩泉,11℃)が存在している[1]。丘陵は南部を中心に勇払平野に繋がる、遠浅川やフモンケ川などの形作る多くの谷底平野が入り込んでいる[4]。
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地質学的には
馬追丘陵の東側においては、上から汐見層、下安平層、美里層、ニタッポロ層が順に重なっている。これらの層は、支笏カルデラ、樽前山、風不死岳、恵庭岳等からの噴出物で出来た地層である。この内、汐見層とは角閃石と紫蘇輝石火山灰層がピート層・粘土層に挟まっていう地層である。また、下安平層と美里層は白色軽石や有色鉱物が砂層、砂礫層、シルト層中に点在する地層であり、その含有率のみに差がある。最下層のニタッポロ層は青灰色粘土層が紫蘇輝石軽石層を挟んだものである[5]。
馬追丘陵北部にあっては、道央の石狩平野南部地域の地下に厚く発達している南長沼層が露出しており、地質学関係者の間ではその模式地として知られている。南長沼層とは、浅海成や非海成の上部漸新統であり、道央地方における後期新生代堆積盆の発達により形成された局地的な堆積盆の埋積物が生み出した地層のこととされている。南長沼層が露出している、長沼町内の馬追丘陵北部の地点の泥質岩試料からは有孔虫、珪藻、渦鞭毛藻、花粉等の微化石が数多く出土している。このような形で様々な種類の微化石を大量に産出するような浅海成相を示す上部漸新統が北日本とその周辺で分布している事は大変珍しく、南長沼層の微化石相は、北西太平洋地域の中緯度域での古第三紀末の浅海の古生物相の一端を示す例として貴重であるとされている[6]。
早来丘陵
前述のとおり、馬追丘陵南部、安平町と厚真町にまたがるエリアは早来丘陵と呼ばれており、その長さは南北約10kmである[4]。この丘陵は北部の馬追丘陵の中軸となる山域とは、安平町の市街地付近に存在する安平川周辺の氾濫平野に分断されており、この部分をJR室蘭線や国道234号線は通過している[4]。また、安平川の周辺やその南側の丘陵地には、小規模な段丘が多く存在している[4]。
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馬追山
馬追山 | |
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標高 | 275 m |
所在地 | 日本 北海道空知管内夕張郡長沼町及び由仁町 |
位置 | 北緯42度59分46秒 東経141度45分16秒 / 北緯42.99611度 東経141.75444度座標: 北緯42度59分46秒 東経141度45分16秒 / 北緯42.99611度 東経141.75444度 |
山系 | 馬追丘陵 |
馬追山の位置 | |
プロジェクト 山 |
馬追山(まおいやま)は、標高275mの山で、北海道空知管内夕張郡の長沼町と由仁町に位置し、馬追丘陵の一角を構成している。瀞台の通称がある[7]。また、長沼ナイキ基地訴訟の舞台となった場所としても知られる[8]。
1873年、マーレー・S・デイというお雇い外国人が苫小牧の勇払を基点に三角測量に着手した。丁度、この時5つの地点に標が立てられ、そのなかの第4標目に選ばれたのがこの馬追山だった[7]。馬追丘陵のなかで最高峰となる馬追山からは、当時、札幌にあった開拓使庁庁舎の屋上に設置されていた八角座を望むことができ、精確な三角測量の基準になったという[7]。こうして太平洋側から日本海側までを、三角線を接続することに成功したデイは、1874年に初の近代測量による「北海道実測図」を発行したものの、測量自体がその翌年に中断されている[7]。
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長沼ナイキ基地訴訟
1969年、馬追山山中に航空自衛隊が「ナイキ地対空ミサイル基地」を建設するために、当時の農林大臣が森林法に基づいて国有水源涵養保安林の一部(全体、約1500haのうち約35ha)指定を解除した[8]。これに対し反対派地域住民のうちの一部[9]や、左翼系の護憲派[9][8]、日米安保反対派、在日朝鮮人の団体[10][11]や、日教組[12]などで構成される反基地闘争勢力[8]が、「基地には公益性がなく、自衛隊は違憲であり、保安林解除は違法である」として、保安林指定解除の取消しを求めて行政訴訟を起こした事件である[8][13]。訴訟は、一審の札幌地裁では「平和的生存権」を認め、初の違憲判決で処分を取り消したものの、国の控訴による二審で札幌高裁は「防衛施設庁による代替施設の完成によって補填される」として一審判決を破棄、「統治行為論」を判示した。これを不服とした原告団は上告したものの、最高裁は違憲審査権の行使を控え、そもそも原告側には原告適格がないとして、1980年に上告を棄却した[14]。この事件が長沼ナイキ基地訴訟問題である。
また、現在もこちらの地図にもあるように、長沼町馬追台の山麓から山腹にかけてのエリアには航空自衛隊千歳基地長沼分屯基地が在り、北部航空方面隊麾下の第3高射群に所属する第11高射隊と第24高射隊が駐屯している。
長官山
長官山 | |
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標高 | 254 m |
所在地 | 日本 北海道空知管内夕張郡長沼町及び由仁町 |
位置 | 北緯43度01分34秒 東経141度44分52秒 / 北緯43.02611度 東経141.74778度座標: 北緯43度01分34秒 東経141度44分52秒 / 北緯43.02611度 東経141.74778度{{#coordinates:}}: 各ページで primary のタグは複数指定できません |
山系 | 馬追丘陵 |
馬追山の位置 | |
プロジェクト 山 |
長官山(ちょうかんざん、ちょうかんやま)は、北海道空知管内夕張郡の長沼町と由仁町の町境に存在する標高254mの山である[15][16]。この山は、石狩平野南部に位置しており、馬追山等とともに馬追丘陵を構成している[15][7]。
長官山の標高は254mと北海道の他の山々と比べると比較的低いながらも、山頂付近は草や低木しか茂っていないことや周囲に高い山がなく平野が広がっていること等から、石狩平野に広がる北海道でも有数の美しい水田が見渡せ眺望は良い[16]。特に天気が良い日には、北西方向には札幌市街が東には日高山脈や芦別岳、夕張岳が見渡せる。山中の見晴らし台には、小説『馬追原野』の著者辻村もと子の文学碑が存在する[17]。
長官山という、この山の名前は、1891年に渡辺千秋北海道庁長官(3代目)が、北海道内の視察を目的とした道内行脚を行うに際して、この山へ登頂し、当時はまだただの広い原野であった石狩平野の開拓構想を練ったことにちなんで、長沼町と由仁町の住民が「長官山」と呼んだことに由来するとされている[15]。
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山の自然
野鳥や、昆虫、樹木や野花の種類が大変豊富で、馬追丘陵全体では、例えば、25種類の蘭、202種類の野鳥の生息が確認されている。長官山に限っていえば、針葉樹のトドマツ、広葉樹のミズナラ、ホオノキ、キタコブシ、オオカメノキ等が群生しているが、このうち、冬季でも葉をつけているのは、トドマツのみである[16]。そして、これらの樹木は、その種類を問わず、雪の重みの影響などで根上り現象が起きていることが多い[16]。この美しい自然は遊歩道が整備されているため、簡単に観察し愛でることができるが[18]、ヒグマなども生息しており、登山に際しては注意が必要である[16]。
脚注
- ^ a b c d 『世界大百科事典(電子辞書版)』 日立ソリューションズ制作 1998年10月編集収録
- ^ a b c d 『日本の地名がわかる事典』講談社
- ^ 山田秀三著『北海道の地名』北海道新聞社1984年
- ^ a b c d e {{{1}}} (PDF) 2013年2月7日閲覧
- ^ 論文『中央北海道南部・馬追丘陵地域、上部漸新統 南長沼層模式地(浅海~河川成)における微化石相と堆積相』栗田裕司・一ノ関鉄郎・小布施明子・三輪美智子・秋葉文雄(石油資源開発株式会社 技術研究所)
- ^ 論文『馬追丘陵に分布する 支笏 プレ支笏 火山灰』 会田信行
- ^ a b c d e 石狩川流域史 支川編 夕張川流域 開拓初期 暮らし・社会国土交通省北海道開発局 札幌開発建設部
- ^ a b c d e 判例研究『長沼ナイキ基地訴訟上告審判決』(松本昌悦著作論文 (中京大学))
- ^ a b 南空知新報第1341号、南空知新報1343号、南空知新報第1345号、南空知新報第1351号、南空知新報第1357号、南空知新報第1363号、南空知新報第1370号、南空知新報第1376号、南空知新報第1382号掲載の「長沼分屯基地創設時の思い出1~9」
- ^ 『恵庭・長沼の闘いに学ぶ』(人権と民族パンフレット特別号 発行:北海道在日朝鮮人の人権を守る会 1974年7月3日制作)
- ^ 長沼事件関係資料目録(PDF) 北海道立図書館
- ^ 『対自衛隊・長沼闘争と教育の軍国主義化反対闘争との関連』 (制作:教員“野崎さんを守る会” 1970年10月25日公開)
- ^ 「長沼訴訟」『デジタル大辞泉』 小学館
- ^ 『判決理由要旨(最高裁団藤判決)』 1982年9月9日言渡し判決
- ^ a b c 『由仁町史』(発行元:由仁町 発行年:1973年 閲覧月:2012年11月
- ^ a b c d e 冬に耐える植物 (著者:望田武司 配信元:NPO法人ネットジャーナリスト協会 配信日:2009年2月24日 閲覧日:2013年2月7日閲覧)
- ^ 辻村もと子文学碑 じゃらん観光情報 2013年2月7日閲覧
- ^ 馬追丘陵の環境と保全について 長沼町議会一般質問 町議会だより 2013年2月7日閲覧
関連項目