「プシェミスル朝」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
|||
20行目: | 20行目: | ||
*[[ブジェチスラフ1世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ1世]](''Břetislav I.'')(1034 - 1055年) |
*[[ブジェチスラフ1世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ1世]](''Břetislav I.'')(1034 - 1055年) |
||
*[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スピチフニェフ2世]](''Spytihněv II.'')(1055年 - 1061年) |
*[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スピチフニェフ2世]](''Spytihněv II.'')(1055年 - 1061年) |
||
*[[ヴラチスラフ2世]](''Vratislav II.'')(1061年 - 1085年) - ボヘミア王(1代限り)(1085年 - 1092年) |
*[[ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王)|ヴラチスラフ2世]](''Vratislav II.'')(1061年 - 1085年) - ボヘミア王(1代限り)(1085年 - 1092年) |
||
*[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート1世]](''Konrád I.'')(1092年) |
*[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート1世]](''Konrád I.'')(1092年) |
||
*[[ブジェチスラフ2世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ2世]](''Břetislav II.'')(1092年 - 1100年) |
*[[ブジェチスラフ2世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ2世]](''Břetislav II.'')(1092年 - 1100年) |
||
62行目: | 62行目: | ||
{{familytree | | | | | | | | | |BR1 |y|JUD |BR1=[[ブジェチスラフ1世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ1世]]|JUD=ユーディト<br>([[ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト]]娘)|boxstyle_BR1 =background-color: #ff9;}} |
{{familytree | | | | | | | | | |BR1 |y|JUD |BR1=[[ブジェチスラフ1世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ1世]]|JUD=ユーディト<br>([[ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト]]娘)|boxstyle_BR1 =background-color: #ff9;}} |
||
{{familytree | | |,|-|-|-|-|-|-|-|v|-|^|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| |}} |
{{familytree | | |,|-|-|-|-|-|-|-|v|-|^|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| |}} |
||
{{familytree | |SP2 | | | | | |VR2 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |KO1 | | JAR | |OT1 |SP2=[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スピチフニェフ2世]]|VR2=[[ヴラチスラフ2世]]|KO1=[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート1世]]|JAR=ヤロミール<br>(ゲープハルト)<br>プラハ司教|OT1=オットー|boxstyle_SP2 =background-color: #ff9;|boxstyle_VR2 =background-color: #fdd;|boxstyle_KO1 =background-color: #ff9;}} |
{{familytree | |SP2 | | | | | |VR2 | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |KO1 | | JAR | |OT1 |SP2=[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スピチフニェフ2世]]|VR2=[[ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王)|ヴラチスラフ2世]]|KO1=[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート1世]]|JAR=ヤロミール<br>(ゲープハルト)<br>プラハ司教|OT1=オットー|boxstyle_SP2 =background-color: #ff9;|boxstyle_VR2 =background-color: #fdd;|boxstyle_KO1 =background-color: #ff9;}} |
||
{{familytree | | | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | |!| | | | | | | |!| |}} |
{{familytree | | | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|-|-|-|-|-|.| | | | | | | | | |!| | | | | | | |!| |}} |
||
{{familytree | | LIU |~|BR2 | |BO2 |~| GER | |VL1 | | | | | |SO1 |y| ADE | | | |LUI |y| IDA | |SV2 |LIU=リウトガルト<br>(1094没)<br>(ボーゲン伯アダルベルト娘)|BR2=[[ブジェチスラフ2世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ2世]]|BO2=[[ボジヴォイ2世 (ボヘミア公)|ボジヴォイ2世]]|GER=ゲルベルガ<br>(オーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]娘)|VL1=[[ヴラジスラフ1世]]|SO1=[[ソビェスラフ1世 (ボヘミア公)|ソビェスラフ1世]]|ADE=アーデルハイト<br>(ハンガリー王子アールモシュ娘)|LUI=ルイトルド<br>ズノイモ公|SV2=[[スヴァトプルク (ボヘミア公)|スヴァトプルク]]|IDA=イーダ<br>(オーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]娘)|boxstyle_BR2 =background-color: #ff9;|boxstyle_BO2 =background-color: #ff9;|boxstyle_VL1 =background-color: #ff9;|boxstyle_SO1 =background-color: #ff9;|boxstyle_SV2 =background-color: #ff9;}} |
{{familytree | | LIU |~|BR2 | |BO2 |~| GER | |VL1 | | | | | |SO1 |y| ADE | | | |LUI |y| IDA | |SV2 |LIU=リウトガルト<br>(1094没)<br>(ボーゲン伯アダルベルト娘)|BR2=[[ブジェチスラフ2世 (ボヘミア公)|ブジェチスラフ2世]]|BO2=[[ボジヴォイ2世 (ボヘミア公)|ボジヴォイ2世]]|GER=ゲルベルガ<br>(オーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]娘)|VL1=[[ヴラジスラフ1世]]|SO1=[[ソビェスラフ1世 (ボヘミア公)|ソビェスラフ1世]]|ADE=アーデルハイト<br>(ハンガリー王子アールモシュ娘)|LUI=ルイトルド<br>ズノイモ公|SV2=[[スヴァトプルク (ボヘミア公)|スヴァトプルク]]|IDA=イーダ<br>(オーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]娘)|boxstyle_BR2 =background-color: #ff9;|boxstyle_BO2 =background-color: #ff9;|boxstyle_VL1 =background-color: #ff9;|boxstyle_SO1 =background-color: #ff9;|boxstyle_SV2 =background-color: #ff9;}} |
2021年5月19日 (水) 21:20時点における版
ポーランドの歴史 | ||
---|---|---|
ピャスト朝 10世紀 - 1370年 |
||
プシェミスル朝 1300年 - 1306年 | ||
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年 | ||
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年 | ||
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年 | ||
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年 | ||
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年 | ||
ポーランド立憲王国 1815年 - 1867年 |
クラクフ共和国 1815年 - 1846年 |
ポズナン大公国 1815年 - 1848年 |
第一次世界大戦 1914年 - 1918年 | ||
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年 | ||
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年 | ||
第二次世界大戦 1939年 - 1945年 | ポーランド亡命政府 | |
ポーランド総督府 1939年 - 1945年 | ||
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年 | ||
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在 | ||
[編集] |
プシェミスル朝(チェコ語: Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。
歴代君主一覧
ボヘミア公
- ボジヴォイ1世(Bořivoj I.)(850/71年 - 894/5年)
- スピチフニェフ1世(Spytihněv I.)(894/5年 - 905/15年)
- ヴラチスラフ1世(Vratislav I.)(905/15年 - 921年)
- ヴァーツラフ1世(Václav I.)(921年 - 929年)
- ボレスラフ1世(Boleslav I.)(929年 - 967年)
- ボレスラフ2世(Boleslav II.)(967年 - 999年)
- ボレスラフ3世(Boleslav III.)(999年 - 1002年、1003年 - 1004年)
- ヴラジヴォイ(Vladivoj)(1002年 - 1003年) - ポーランド王ミェシュコ1世子
- ボレスワフ(1世)(Boleslav I.)(1003年 - 1004年) - ポーランド王(1025年)
- ヤロミール(Jaromír)(1004年 - 1012年、1033年 - 1034年)
- オルドジフ(Oldřich)(1012年 - 1033年)
- ブジェチスラフ1世(Břetislav I.)(1034 - 1055年)
- スピチフニェフ2世(Spytihněv II.)(1055年 - 1061年)
- ヴラチスラフ2世(Vratislav II.)(1061年 - 1085年) - ボヘミア王(1代限り)(1085年 - 1092年)
- コンラート1世(Konrád I.)(1092年)
- ブジェチスラフ2世(Břetislav II.)(1092年 - 1100年)
- ボジヴォイ2世(Bořivoj II.)(1100年 - 1107年、1117年 - 1120年)
- スヴァトプルク(Svatopluk)(1107年 - 1109年)
- ヴラジスラフ1世(Vladislav I.)(1109年 - 1117年、1120年 - 1125年)
- ソビェスラフ1世(Soběslav I.)(1125年 - 1140年)
- ヴラジスラフ2世(Vladislav II.)(1140年 - 1158年) - ボヘミア王(1158年 - 1173年)
- ベドジフ(Bedřich)(1173年、1179年 - 1192年)
- ソビェスラフ2世(Soběslav II.)(1173年 - 1179年)
- オタカル1世(Přemysl Otakar I.)(1192年 - 1193年、1197年 - 1198年)
- インジヒ・ブレチスラフ(Indrjiv)(1193年 - 1197年)
ボヘミア王
- オタカル1世(Přemysl Otakar I.)(1198年 - 1230年)
- ヴァーツラフ1世(Václav I.)(1230年 - 1253年)
- オタカル2世(Přemysl Otakar II.)(1253年 - 1278年) - 兼オーストリア公(1251年 - 1278年)
- ヴァーツラフ2世(Václav II.)(1278年 - 1305年) - 兼ポーランド王(1300年 - 1305年)
- ヴァーツラフ3世(Václav III.)(1305年 - 1306年) - 兼ハンガリー王(1301年 - 1304年)、ポーランド王(1305年 - 1306年)
(日本語表記は『世界各国史19ドナウ・ヨーロッパ史(山川出版社)』に基づく)
系図
ボヘミア公・ボヘミア王家
- :ボヘミア公
- :ボヘミア王
プシェミスル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ボジヴォイ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スピチフニェフ1世 | ヴラチスラフ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴァーツラフ1世 | ボレスラフ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ボレスラフ2世 | ギュンター マイセン辺境伯 | ドゥブラフカ | ミェシュコ1世 ポーランド王 | クリスティアン(Strahkvas) (c.929-996) レーゲンスブルクの修道士 | ムラダ・マリア プラハの聖イジー女子修道院長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ボレスラフ3世 | ヤロミール | オルドジフ | ボレスワフ1世 ポーランド王 | ヴラジヴォイ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ブジェチスラフ1世 | ユーディト (ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スピチフニェフ2世 | ヴラチスラフ2世 | コンラート1世 | ヤロミール (ゲープハルト) プラハ司教 | オットー | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リウトガルト (1094没) (ボーゲン伯アダルベルト娘) | ブジェチスラフ2世 | ボジヴォイ2世 | ゲルベルガ (オーストリア辺境伯レオポルト2世娘) | ヴラジスラフ1世 | ソビェスラフ1世 | アーデルハイト (ハンガリー王子アールモシュ娘) | ルイトルド ズノイモ公 | イーダ (オーストリア辺境伯レオポルト2世娘) | スヴァトプルク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゲルトルート (レオポルト3世娘) | ヴラジスラフ2世 | ユーディト (チューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世娘) | インドリフ | ソビェスラフ2世 | ヴァーツラフ2世 | マリア 1=オーストリア辺境伯レオポルト4世 2=ケルンテン公ヘルマン2世 | コンラート2世 ズノイモ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エルジェーベト (ゲーザ2世娘) | ベドジフ | オタカル1世 | ヴラジスラフ3世 | リクサ =メドリンク公ハインリヒ(バーベンベルク家) | インドリフ プラハ司教 | コンラート3世 | ヘレナ =カジミェシュ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルドミラ (1170-1240) 1=ボーゲン伯アルブレヒト(1198没) 2=バイエルン公ルートヴィヒ1世 | ヴァーツラフ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴラディスラフ | ゲルトルート (オーストリア公レオポルト6世孫) | マルガレーテ (オーストリア公レオポルト6世娘) | オタカル2世 | クンフタ | ボジェナ | オットー3世 ブランデンブルク辺境伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(庶子) ミクラーシュ1世 オパヴァ公(トロパウ公) | グタ (皇帝ルドルフ1世娘) | ヴァーツラフ2世 | リクサ (ポーランド王プシェミスウ2世娘) | ルドルフ3世 オーストリア公 | オットー5世 ブランデンブルク辺境伯 ボヘミア摂政(1278 - 1283) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オパヴァ公(トロパウ公)家 | ヴァーツラフ3世 | アンナ | ハインリヒ6世 ケルンテン公 | エリシュカ | ヨハン・フォン・ルクセンブルク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルクセンブルク家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オパヴァ公(トロパウ公)家
ミクラーシュ1世 オパヴァ公(トロパウ公) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミクラーシュ2世 オパヴァ公 ラチブシュ公 | アンナ (ラチブシュ公プシェミスワフ娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヤン1世 オパヴァ公 クルノフ公 ラチブシュ公 | マルケータ =モラヴィア辺境伯ヨハン・ハインリヒ | ミクラーシュ3世 グウプチツェ公 | ヴァーツラフ オパヴァ公 | プシェミスル1世 オパヴァ公 グウプチツェ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヤン2世 オパヴァ公 | ミクラーシュ4世 ブルンタール公 | ヴァーツラフ2世 グウプチツェ公 | ヴィレーム オパヴァ公 ミュンスターベルク公 | アルノシュト オパヴァ公 ミュンスターベルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴァーツラフ ラチブシュ公 | ミクラーシュ5世 クルノフ公 リブニク公 | ヤン グウプチツェ公 | ヴァーツラフ シュタイナウ公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヤン3世 ラチブシュ公 | ヤン4世 クルノフ公 | バルボラ =オシフィエンチム公ヤン4世 | ヴァーツラフ リブニク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミクラーシュ ラチブシュ公 | ヤン | ヴァレンティン ラチブシュ公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
- 薩摩秀登 『物語 チェコの歴史』 中央公論新社、2006年
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little,Brown & Company, 1981.
- Hugo Weczerka, Handbuch der historischen Stätten, Schlesien, Kröner, 1977.