「ハインリヒ・フォン・ツァイスベルク」の版間の差分
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*''Die polnische Geschichtsschreibung des Mittelalters''(ライプツィヒ、1873年) - 中世ポーランドの[[史観]] |
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*''Rudolf von Habsburg und der österreichische Staatsgedanke''(ウィーン、1882年) - [[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ・フォン・ハプスブルク]]とオーストリア国という思想 |
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*''Über das Rechtsverfahren Rudolfs von Habsburg gegen Ottokar von Böhmen''(ウィーン、1887年) - ルドルフ・フォン・ハプスブルクと[[オタカル2世|オットカール・フォン・ベーメン]]の係争 |
*''Über das Rechtsverfahren Rudolfs von Habsburg gegen Ottokar von Böhmen''(ウィーン、1887年) - ルドルフ・フォン・ハプスブルクと[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オットカール・フォン・ベーメン]]の係争 |
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*''Der österreichische Erbfolgestreit nach dem Tode des Königs Ladislaus Posthumus, 1457-58''(ウィーン、1879年) - [[ラディスラウス・ポストゥムス]]王の死後のオーストリア継承争い |
*''Der österreichische Erbfolgestreit nach dem Tode des Königs Ladislaus Posthumus, 1457-58''(ウィーン、1879年) - [[ラディスラウス・ポストゥムス]]王の死後のオーストリア継承争い |
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2021年5月19日 (水) 21:25時点における版
ハインリヒ・リッター・フォン・ツァイスベルク(ドイツ語: Heinrich Ritter von Zeissberg、1839年7月8日 ウィーン - 1899年5月27日 ウィーン)は、オーストリア=ハンガリー帝国の歴史家。
略歴
ウィーン大学で歴史を学び、1862年に博士になった[1]。1863年に歴史を教える資格を獲得した後[1]、1865年にレンベルク大学の歴史学教授になり[1][2]、1871年にインスブルック大学に移籍した[1][2]。1873年にウィーン大学の教授になり、以降1897年まで在籍した[1][2]。皇太子ルドルフの家庭教師の1人として歴史を教えた[2]。1891年にウィーンのオーストリア歴史研究学会の会長に就任[1][2]、1896年から1899年まで宮廷図書館の館長を務めた[1]。1899年5月27日に死去した[1][2]。
著作
特記がない限り、本節の出典は[2]。
中世オーストリアとポーランド
- Arno, erster Erzbischof van Salzburg(ウィーン、1863年) - 初代ザルツブルク司教アルノ
- Miseco I. (Mieczysław) der erste christliche beherrscher der Polen(1867年) - ポーランド公初のキリスト教徒であるミェシュコ1世
- Die Kriege Kaiser Heinrichs II. mit Herzog Boleslaw I. von Polen(ウィーン、1868年) - 神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世とポーランド公ボレスワフ1世の戦争
- Die polnische Geschichtsschreibung des Mittelalters(ライプツィヒ、1873年) - 中世ポーランドの史観
- Rudolf von Habsburg und der österreichische Staatsgedanke(ウィーン、1882年) - ルドルフ・フォン・ハプスブルクとオーストリア国という思想
- Über das Rechtsverfahren Rudolfs von Habsburg gegen Ottokar von Böhmen(ウィーン、1887年) - ルドルフ・フォン・ハプスブルクとオットカール・フォン・ベーメンの係争
- Der österreichische Erbfolgestreit nach dem Tode des Königs Ladislaus Posthumus, 1457-58(ウィーン、1879年) - ラディスラウス・ポストゥムス王の死後のオーストリア継承争い
18世紀末の歴史に関する著作
- Zur deutschen Kaiserpolitik Oesterreichs: ein Beitrag zur Geschichte des Revolutionsjahres 1795(ウィーン、1899年) - オーストリアのドイツ帝国主義政策: 革命の年1795年の歴史について
- Zwei Jahre belgischer Geschichte 1791-92(ウィーン、1891年) - ベルギーの歴史の2年間: 1791年-1792年
- Belgien unter der Generalstatthalterschaft Erzherzog Karls 1793-94(ウィーン、1893年 - 1894年) - カール大公治下のベルギー、1793年-1794年
- Erzherzog Karl von Oesterreich. Lebensbild(ウィーン、1895年) - カール大公伝
- Franz Josef I.(ウィーン、1888年) - フランツ・ヨーゼフ1世
- Quellen zur Geschichte der Deutschen Kaiserpolitik Oesterreichs während der französischen Revolutionskriege 1790-1801(ウィーン、1882年 - 1885年、1890年) - ツァイスベルクは第3巻から第5巻までを編集した[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i Killy, Walther; Vierhaus, Rudolf (2011-11-30) (英語). Dictionary of German Biography. 10. p. 666. ISBN 9783110961164
- ^ a b c d e f g Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ Heinrich Ritter von Zeißberg (1883). "Leopold V. (VI.), Herzog von Oesterreich". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 18. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 385–388.