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「フリードリヒ1世 (バーデン=バーデン辺境伯)」の版間の差分

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[[1267年]]、同世代の親族である<ref>フリードリヒ1世の父方の祖母イルムガルトとコッラディーノの母方の祖母アグネスはともに[[ライン宮中伯]][[ハインリヒ5世 (ライン宮中伯)|ハインリヒ5世]]の娘である。</ref>[[ホーエンシュタウフェン朝]]の[[シチリア王国|シチリア王]]、[[エルサレム王国|エルサレム]]王の[[コッラディーノ]]と共に[[イタリア]]に遠征したが、1268年[[8月23日]]、{{仮リンク|タリアコッツォの戦い|en|Battle of Tagliacozzo}}で[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]に敗れ、トッレ・アストゥーラにて捕縛、幽閉された。やがて[[ナポリ]]に移され、10月29日、メルカート広場で[[死刑執行人]]の[[ドメニコ・プンツォ]]の手によって斬首された。処刑された場所には後年{{仮リンク|サンタ・クローチェ・アル・メルカート教会|it|Chiesa di Santa Croce al Mercato}}が建てられた。


バーデンは叔父のルドルフ1世が単独統治することになり、[[オーストリア公国]]は[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世]]が獲得したが、オタカル2世は[[1278年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]に敗れて戦死、[[ハプスブルク家]]の家領となった。
バーデンは叔父のルドルフ1世が単独統治することになり、[[オーストリア公国]]は[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]が獲得したが、オタカル2世は[[1278年]]に[[神聖ローマ皇帝]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]に敗れて戦死、[[ハプスブルク家]]の家領となった。


== 脚注 ==
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2021年5月19日 (水) 21:28時点における版

フリードリヒ1世
Friedrich I.
バーデン=バーデン辺境伯
死刑判決を受けるコッラディーノとフリードリヒ1世、ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティシュバイン作(1784年)
在位 1250年 - 1268年

出生 1249年
死去 1268年10月29日
家名 ツェーリンゲン家
父親 バーデン=バーデン辺境伯ヘルマン6世
母親 ゲルトルート・フォン・バーベンベルク
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フリードリヒ1世(Friedrich I., 1249年 - 1268年10月29日)は、バーデン=バーデン辺境伯(在位:1250年 - 1268年)。ツェーリンゲン家当主で、祖父はバーデン=バーデン辺境伯ヘルマン5世ライン宮中伯ハインリヒ5世の婿)、父はヘルマン6世、母はオーストリア公レオポルト6世の孫娘ゲルトルート。叔父はルドルフ1世

生涯

1246年、母方の大叔父のフリードリヒ2世が戦死し、バーベンベルク家は断絶した。父は母がバーベンベルク家の女子相続人だったことからオーストリア公国を請求したが1250年に25歳の若さで死去したため、フリードリヒ1世がバーデンを相続したが、幼いため叔父のルドルフ1世が共同統治者となった。

1267年、同世代の親族である[1]ホーエンシュタウフェン朝シチリア王エルサレム王のコッラディーノと共にイタリアに遠征したが、1268年8月23日タリアコッツォの戦い英語版シャルル・ダンジューに敗れ、トッレ・アストゥーラにて捕縛、幽閉された。やがてナポリに移され、10月29日、メルカート広場で死刑執行人ドメニコ・プンツォの手によって斬首された。処刑された場所には後年サンタ・クローチェ・アル・メルカート教会イタリア語版が建てられた。

バーデンは叔父のルドルフ1世が単独統治することになり、オーストリア公国ボヘミア王オタカル2世が獲得したが、オタカル2世は1278年神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて戦死、ハプスブルク家の家領となった。

脚注

  1. ^ フリードリヒ1世の父方の祖母イルムガルトとコッラディーノの母方の祖母アグネスはともにライン宮中伯ハインリヒ5世の娘である。
先代
ヘルマン6世
バーデン=バーデン辺境伯
1250年 - 1268年
ルドルフ1世と共同統治
次代
ルドルフ1世
先代
ヘルマン1世
オーストリア公
1250年 - 1268年
次代
オタカル2世