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後に[[第4回十字軍]]のもたらした[[東ローマ帝国]]の崩壊のさなか、テオドラはレオポルト6世と結婚した。2人には7子が生まれた。
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*[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]](1204年 - 1266年) - [[ローマ王]][[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ(7世)]](神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の長男)と結婚、死後に[[ボヘミア]]王[[オタカル2世]]と再婚。
*[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]](1204年 - 1266年) - [[ローマ王]][[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ(7世)]](神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の長男)と結婚、死後に[[ボヘミア]]王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]と再婚。
*アグネス(1205年 - 1226年) - [[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[アルブレヒト1世 (ザクセン公)|アルブレヒト1世]]妃
*アグネス(1205年 - 1226年) - [[ザクセン君主一覧|ザクセン公]][[アルブレヒト1世 (ザクセン公)|アルブレヒト1世]]妃
*レオポルト(1207年 - 1216年)
*レオポルト(1207年 - 1216年)

2021年5月19日 (水) 21:33時点における版

テオドラ・アンゲリナ
Theodora Angelina
ブルガリア皇后
オーストリア公妃
テオドラ・アンゲリナの紋章

出生 1180/85年
コンスタンティノープル
死去 1246年6月22日/23日
カーレンベルク
配偶者 ワラキア=ブルガリア帝国皇帝イヴァンコ
  ドブロミル
  オーストリア公レオポルト6世
子女 マルガレーテ
アグネス
レオポルト
ハインリヒ
ゲルトルート
フリードリヒ2世
コンスタンツェ
父親 イサキオス・コムネノス
母親 アンナ・アンゲリナ
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テオドラ・アンゲリナ(Theodora Angelina, 生没年不詳)は、バーベンベルク家オーストリア公レオポルト6世の妻。イサキオス・コムネノス(東ローマ帝国マヌエル1世コムネノスの甥の子)と皇女アンナ・アンゲリナ(皇帝アレクシオス3世アンゲロスの子)の唯一の子。

生涯

1197年ワラキア=ブルガリア帝国第2代皇帝イヴァンコ(イヴァン・アセン1世を殺して即位)と結婚。東ローマ帝国に恭順の意を表明し、アレクシオスの名まで賜っていたイヴァンコは1198年にすぐさま反旗を翻し、父イサキオスは、夫の属するワラキア=ブルガリアの捕虜となって死んだ。将軍マヌエル・ヴァタツェスは彼を捕らえ、テオドラは夫と離婚した。

1200年頃、彼女はワラキア=ブルガリアの指導者であるドブロミル(将軍マヌエルの義理の息子)の3人目の妻となっていた。

後に第4回十字軍のもたらした東ローマ帝国の崩壊のさなか、テオドラはレオポルト6世と結婚した。2人には7子が生まれた。

脚注

参考文献

関連項目