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「エリシュカ・プシェミスロヴナ」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
兄[[ヴァーツラフ3世]]は1301年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位につき、父ヴァーツラフ2世が1305年に死去すると代わってポーランドとボヘミアの王位を継承したが、翌1306年に暗殺されて、[[プシェミスル朝]]最後の王となった。その後、ポーランドでは[[ピャスト朝]]が復活し、ハンガリーでは[[バイエルン大公|バイエルン公]][[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]の短い在位の後に[[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー朝]]が興った。ボヘミアでは、エリシュカの姉[[アンナ・プシェミスロヴナ|アンナ]]と結婚した[[ケルンテン公国|ケルンテン公]][[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]と、ヴァーツラフ2世の後妻[[リクサ・エルジュビェタ]]と結婚した[[オーストリア公]][[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](王女エリシュカの母方の従兄に当たる)が王位を争った。
兄[[ヴァーツラフ3世 (ボヘミア王)|ヴァーツラフ3世]]は1301年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]の王位につき、父ヴァーツラフ2世が1305年に死去すると代わってポーランドとボヘミアの王位を継承したが、翌1306年に暗殺されて、[[プシェミスル朝]]最後の王となった。その後、ポーランドでは[[ピャスト朝]]が復活し、ハンガリーでは[[バイエルン大公|バイエルン公]][[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]の短い在位の後に[[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー朝]]が興った。ボヘミアでは、エリシュカの姉[[アンナ・プシェミスロヴナ|アンナ]]と結婚した[[ケルンテン公国|ケルンテン公]][[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]と、ヴァーツラフ2世の後妻[[リクサ・エルジュビェタ]]と結婚した[[オーストリア公]][[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](王女エリシュカの母方の従兄に当たる)が王位を争った。


ルドルフは1307年に戦病死したが、ケルンテン公の即位を認めないボヘミア貴族の画策によって、[[ルクセンブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]の息子ヨハンをエリシュカと結婚させ、ボヘミア王に迎えることが取り決められた。1310年、ヨハンは軍勢とともにボヘミア入りし、エリシュカと[[プラハ]]で結婚した。ケルンテン公夫妻はケルンテンへ逃れた。翌1311年、ヨハンの[[戴冠式]]が行われた。
ルドルフは1307年に戦病死したが、ケルンテン公の即位を認めないボヘミア貴族の画策によって、[[ルクセンブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]の息子ヨハンをエリシュカと結婚させ、ボヘミア王に迎えることが取り決められた。1310年、ヨハンは軍勢とともにボヘミア入りし、エリシュカと[[プラハ]]で結婚した。ケルンテン公夫妻はケルンテンへ逃れた。翌1311年、ヨハンの[[戴冠式]]が行われた。

2021年5月19日 (水) 21:48時点における版

エリシュカ・プシェミスロヴナ
Eliška Přemyslovna
ボヘミア王妃
在位 1310年 - 1330年

出生 1292年1月2日
ボヘミア王国プラハ
死去 (1330-09-28) 1330年9月28日(38歳没)
ボヘミア王国、プラハ
埋葬 ボヘミア王国プラハ、ズブラスラフ修道院
配偶者 ボヘミアヨハン・フォン・ルクセンブルク
子女 一覧参照
家名 プシェミスル家
父親 ボヘミア王兼ポーランドヴァーツラフ2世
母親 グタ・ハブスブルスカー
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エリシュカ・プシェミスロヴナ(Eliška Přemyslovna, 1292年1月2日 - 1330年9月28日)は、ボヘミア王およびルクセンブルク伯ヨハンの最初の妃。ポーランド王も兼ねたボヘミア王ヴァーツラフ2世の娘で、母はドイツ王ルドルフ1世の娘ユッタ。エリシュカはチェコ語名で、ドイツ語名ではエリーザベト(Elisabeth)、ポーランド語名ではエルジュビェタ(Elżbieta)。

生涯

ヴァーツラフ3世は1301年にハンガリーの王位につき、父ヴァーツラフ2世が1305年に死去すると代わってポーランドとボヘミアの王位を継承したが、翌1306年に暗殺されて、プシェミスル朝最後の王となった。その後、ポーランドではピャスト朝が復活し、ハンガリーではバイエルン公オットー3世の短い在位の後にアンジュー朝が興った。ボヘミアでは、エリシュカの姉アンナと結婚したケルンテン公ハインリヒ6世と、ヴァーツラフ2世の後妻リクサ・エルジュビェタと結婚したオーストリア公ルドルフ3世(王女エリシュカの母方の従兄に当たる)が王位を争った。

ルドルフは1307年に戦病死したが、ケルンテン公の即位を認めないボヘミア貴族の画策によって、ルクセンブルク家神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハンをエリシュカと結婚させ、ボヘミア王に迎えることが取り決められた。1310年、ヨハンは軍勢とともにボヘミア入りし、エリシュカとプラハで結婚した。ケルンテン公夫妻はケルンテンへ逃れた。翌1311年、ヨハンの戴冠式が行われた。

夫ヨハンが外国人であり、また不在がちであったことから、プシェミスル家の王女であるエリシュカは、ボヘミアの貴族たちによって政治的に担ぎ出されることになった。これに対してヨハンは、エリシュカが貴族と陰謀を画策したとして、1319年に長男で3歳になるヴァーツラフ(のちのカール4世)をエリシュカから引き離した。しかし、ヨハンはその後もエリシュカとの間に3子をもうけている。

1330年にエリシュカが死去した後、ヨハンは1334年にブルボン公ルイ1世の娘ベアトリス(ベアトリクス)と再婚した。

子女

エリシュカはヨハンとの間に4男3女をもうけた。