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「ハインリヒ4世 (ザクセン公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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ザクセン公[[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト3世]]とその妻で[[ボヘミア王]][[イジー・ス・ポジェブラト]]の娘である[[ズデンカ・ス・ポジェブラト|ズデンカ]]の間の次男として生まれた。[[1500年]]に父が死ぬと兄[[ゲオルク (ザクセン公)|ゲオルク]]がその後を継ぎ、ハインリヒは父が晩年に獲得した[[フリースラント]]の領主となった。しかし[[フリース人]]達はザクセン公一族による統治に激しく抵抗し、ハインリヒはフリース人との揉め事に疲れて[[1505年]]にフリースラントの支配権を兄に譲渡した。代わりに、ハインリヒは兄から年金とザクセン領内の[[フライベルク]]及び[[ヴォルケンシュタイン]]の2都市を与えられた。
ザクセン公[[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト3世]]とその妻で[[ボヘミア王]][[イジー (ボヘミア王)]]の娘である[[ズデンカ・ス・ポジェブラト|ズデンカ]]の間の次男として生まれた。[[1500年]]に父が死ぬと兄[[ゲオルク (ザクセン公)|ゲオルク]]がその後を継ぎ、ハインリヒは父が晩年に獲得した[[フリースラント]]の領主となった。しかし[[フリース人]]達はザクセン公一族による統治に激しく抵抗し、ハインリヒはフリース人との揉め事に疲れて[[1505年]]にフリースラントの支配権を兄に譲渡した。代わりに、ハインリヒは兄から年金とザクセン領内の[[フライベルク]]及び[[ヴォルケンシュタイン]]の2都市を与えられた。


[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]がドイツで[[宗教改革]]を始めると、ハインリヒはその数年後に[[ルーテル教会|ルター派]](福音派)に改宗した。一方、兄ゲオルクとその息子達は敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]信徒のままであった。
[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]がドイツで[[宗教改革]]を始めると、ハインリヒはその数年後に[[ルーテル教会|ルター派]](福音派)に改宗した。一方、兄ゲオルクとその息子達は敬虔な[[カトリック教会|カトリック]]信徒のままであった。

2021年5月19日 (水) 21:52時点における版

ハインリヒ4世
Heinrich IV.
ザクセン公
ハインリヒ敬虔公、ルーカス・クラナッハ
在位 1539年4月17日 - 1541年8月18日

出生 (1473-03-16) 1473年3月16日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ドレスデン
死去 (1541-08-18) 1541年8月18日(68歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領、ドレスデン
配偶者 カタリーナ・フォン・メクレンブルク
子女 ジビッレ
アエミーリア
ジドーニエ
モーリッツ
ゼフェリヌス
アウグスト
家名 ヴェッティン家アルブレヒト系
父親 ザクセン公アルブレヒト3世
母親 ズデンカ・ス・ポジェブラト
宗教 キリスト教カトリックルター派
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ブラゲットを着用したハインリヒ敬虔公の肖像

ハインリヒ4世Heinrich IV., 1473年3月16日 - 1541年8月18日)は、アルベルティン系ザクセン公(在位:1539年 - 1541年)。ハインリヒ敬虔公Heinrich der Fromme)の呼び名で知られる。アルベルティン系ザクセン公の支配領域は実質的にマイセン辺境伯領であったため、マイセン辺境伯としてハインリヒ5世Heinrich V.)と数えられることも多い。

生涯

ザクセン公アルブレヒト3世とその妻でボヘミア王イジー (ボヘミア王)の娘であるズデンカの間の次男として生まれた。1500年に父が死ぬと兄ゲオルクがその後を継ぎ、ハインリヒは父が晩年に獲得したフリースラントの領主となった。しかしフリース人達はザクセン公一族による統治に激しく抵抗し、ハインリヒはフリース人との揉め事に疲れて1505年にフリースラントの支配権を兄に譲渡した。代わりに、ハインリヒは兄から年金とザクセン領内のフライベルク及びヴォルケンシュタインの2都市を与えられた。

1517年マルティン・ルターがドイツで宗教改革を始めると、ハインリヒはその数年後にルター派(福音派)に改宗した。一方、兄ゲオルクとその息子達は敬虔なカトリック信徒のままであった。

1539年2月までに兄の2人の息子が亡くなると、1499年に定められた公国の継承規定に従ってハインリヒがアルベルティン系ザクセン公国の相続人となった。プロテスタント信徒を後継者にしたくないゲオルクは何とかしてハインリヒを排除し、公国を神聖ローマ皇帝カール5世の弟のローマ王フェルディナント(後の皇帝フェルディナント1世)に譲ろうとしたが、1539年4月に廃嫡手続きが終わらないまま亡くなったため、ハインリヒが後を継いだ。公爵位を継いだ時は既に66歳になっていたハインリヒの治世は2年と短かったが、公国の体制宗教をルター派教会に変更した。

子女

1512年にメクレンブルク公マグヌス2世の娘カタリーナと結婚し、間に6人の子女をもうけた。

先代
ゲオルク
ザクセン公
アルベルティン系

1539年 - 1541年
次代
モーリッツ