コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ヘプ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ボヘミア王記事の改名に伴うリンク修正依頼 (イジー (ボヘミア王)) - log
48行目: 48行目:
エーガー(ヘプ)は[[11世紀]]後半より史料に現れる(当時の表記は「エーギレ」:[Egire])。[[12世紀]]には、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]のもとで、ヘプ城が建てられている。[[13世紀]]に[[帝国自由都市]]としての地位を手に入れた。
エーガー(ヘプ)は[[11世紀]]後半より史料に現れる(当時の表記は「エーギレ」:[Egire])。[[12世紀]]には、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]のもとで、ヘプ城が建てられている。[[13世紀]]に[[帝国自由都市]]としての地位を手に入れた。


[[14世紀]]半ば、ボヘミア王[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル1世]](神聖ローマ皇帝カール4世)によって貨幣鋳造権が認められた。通商路の中継地に位置していたため商業が盛んだったが、幾度となく戦禍にもさらされた。また、[[1389年]]におけるローマ王兼ボヘミア王[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴァーツラフ4世]]が発布したエーガーの[[ラント平和令]]や、[[15世紀]]前半の[[フス戦争]]後に[[イジー・ス・ポジェブラト]]がボヘミア王に即位、彼と[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]]との間で結ばれボヘミア王国と[[ザクセン公国]]の勢力範囲を確定した[[1459年]]の{{仮リンク|エーガー条約|de|Vertrag von Eger|en|Treaty of Eger}}など、この町において諸侯間の重要な取り決めが結ばれた。
[[14世紀]]半ば、ボヘミア王[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カレル1世]](神聖ローマ皇帝カール4世)によって貨幣鋳造権が認められた。通商路の中継地に位置していたため商業が盛んだったが、幾度となく戦禍にもさらされた。また、[[1389年]]におけるローマ王兼ボヘミア王[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴァーツラフ4世]]が発布したエーガーの[[ラント平和令]]や、[[15世紀]]前半の[[フス戦争]]後に[[イジー (ボヘミア王)]]がボヘミア王に即位、彼と[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]]との間で結ばれボヘミア王国と[[ザクセン公国]]の勢力範囲を確定した[[1459年]]の{{仮リンク|エーガー条約|de|Vertrag von Eger|en|Treaty of Eger}}など、この町において諸侯間の重要な取り決めが結ばれた。


[[ファイル:Ermordung-wallensteins-in-eger-anonymer-kupferstich 1-640x370.jpg|thumb|250px|left|ヴァレンシュタインの暗殺]]
[[ファイル:Ermordung-wallensteins-in-eger-anonymer-kupferstich 1-640x370.jpg|thumb|250px|left|ヴァレンシュタインの暗殺]]
69行目: 69行目:
*シュパリーチェク
*シュパリーチェク
:ゴシック様式の建造物。近世にはユダヤ商人の店となっていた。
:ゴシック様式の建造物。近世にはユダヤ商人の店となっていた。
*[[イジー・ス・ポジェブラト]]王広場
*[[イジー (ボヘミア王)]]王広場


==交通==
==交通==

2021年5月19日 (水) 21:53時点における版

ヘプ
ヘプの市旗 ヘプの市章
位置
ヘプの位置の位置図
ヘプの位置
座標 : 北緯50度04分46秒 東経12度22分14秒 / 北緯50.07944度 東経12.37056度 / 50.07944; 12.37056
歴史
最初に文献に登場した年 1061年
行政
 チェコ
 州 カルロヴィ・ヴァリ州の旗 カルロヴィ・ヴァリ州
 郡 ヘプ郡
ヘプ
町長 Zdeněk Hrkal
地理
面積  
  域 96.37 km2
標高 219 m
人口
人口 (現在)
  域 33,462人
    人口密度   347人/km2
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
公式ウェブサイト : [1]
街の風景

ヘプCheb)は、チェコの町。ドイツ語ではエーガーエゲル(Eger)。「ケプ」とも呼ばれる。

地勢・産業

ドイツ国境に近い。中世よりバイエルンからボヘミア(ベーメン)地方へと移動する中継地点としての役割を果たし、交易などを通じて栄えた。現在は木材、自転車工業などが盛んなほか、多くの観光客も集める。とりわけ、2004年にチェコが欧州連合(EU)に加盟したことは、隣国ドイツからの観光客を増加させることに大きく寄与した。近隣の都市としては、約25キロ南東のマリアーンスケー・ラーズニェ、40キロ北東のカルロヴィ・ヴァリ、40キロ北西のホーフ(ドイツ領)などが挙げられる[1]

歴史

エーガー(ヘプ)は11世紀後半より史料に現れる(当時の表記は「エーギレ」:[Egire])。12世紀には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世のもとで、ヘプ城が建てられている。13世紀帝国自由都市としての地位を手に入れた。

14世紀半ば、ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)によって貨幣鋳造権が認められた。通商路の中継地に位置していたため商業が盛んだったが、幾度となく戦禍にもさらされた。また、1389年におけるローマ王兼ボヘミア王ヴァーツラフ4世が発布したエーガーのラント平和令や、15世紀前半のフス戦争後にイジー (ボヘミア王)がボヘミア王に即位、彼とザクセン選帝侯フリードリヒ2世との間で結ばれボヘミア王国とザクセン公国の勢力範囲を確定した1459年エーガー条約ドイツ語版英語版など、この町において諸侯間の重要な取り決めが結ばれた。

ヴァレンシュタインの暗殺

17世紀前半の三十年戦争で深刻な被害を受けるが、復興を果たした。また、三十年戦争において皇帝側で戦ったヴァレンシュタインは、皇帝フェルディナント2世の不信を招いてこの地でスコットランド人アイルランド人将校によって暗殺された。

1850年には、チェコ系の住民の民族意識の高揚を受け、エーガーとヘプの双方が町の正式名称として採用された。第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国の解体に伴い、ヘプはチェコスロヴァキアの一部となった。しかし、人口の多数を占めていたドイツ系の住民(当時、チェコ系の住民は1割程度)は、この措置に不満を持った。そのことが、ヘプを含むズデーテン地方におけるドイツ系住民のナチス支持へとつながった。1938年、ナチスはズデーテン地方を併合したため、ヘプはドイツ領となった。

第二次世界大戦後、ヘプはチェコスロヴァキア領に復帰した。戦争の被害は限定的であり、歴史的建造物の多くが破壊を免れたことは、ヘプにとって幸いであった。しかし、チェコスロバキア政府のベネシュ布告により、ヘプのドイツ系住民も市民権と財産を没収され、近隣のドイツ・バイエルン州へ強制追放された(ドイツ人追放)。そのため、街並はドイツ風だが、ドイツ系住民の数が大幅に減少し、終戦時に約4万5千人いた人口も1万5千人程度にまで減少した。その後、外部からの移住を奨励する政策がとられ、現在の人口は約3万3千人(2005年)まで回復している。新たな移住者には、共産主義政権により、労働者として招かれていたベトナム人や、定住を促されたロマの人々が含まれる。

1993年におけるチェコとスロヴァキアの分離にともなって、現在はチェコ共和国に属している。

観光

シュパリーチェク
  • ヘプ城跡
12世紀に建てられた城だが、ほとんどその原形をとどめていない。
  • ヘプ博物館
ヴァレンシュタインについての展示など。
  • ファインアート美術館
  • 聖ミクラーシュ教会
  • シュパリーチェク
ゴシック様式の建造物。近世にはユダヤ商人の店となっていた。

交通

鉄道でチェコの各地と結ばれているほか、ドイツとの乗り入れも盛ん。ドイツのニュルンベルクから2時間弱、ツヴィッカウから2時間半弱でヘプに到達することができる。国内においては、カルロヴィ・ヴァリまで約1時間、プラハまで約4時間半。

主な出身者

近世を代表する建築家
『ヴァレンシュタイン』の作者。同作品制作のため、18世紀末よりヘプに滞在した。
チェコを代表するサッカー選手

姉妹都市

脚注

  1. ^ 『地球の歩き方 2017〜18 チェコ/ポーランド/スロヴァキア』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、146頁。ISBN 978-4-478-06043-8 

関連項目

外部リンク