「ジャン=ルイ・ガセー」の版間の差分
m Bot作業依頼: Apple関連記事の改名に伴うリンク修正依頼 (Apple|Apple Computer) - log |
|||
27行目: | 27行目: | ||
==経歴== |
==経歴== |
||
1944年に、[[フランス]]の[[パリ]]に生まれる。[[パリ第11大学|オルセー大学]]で数学と物理学を学び、[[パリ大学]]の博士課程に進むが、修士号を取得したのちに退学。[[エクソンモービル|エクソン]]のフランス子会社や[[ヒューレット・パッカード]]勤務の後、1981年に[[ |
1944年に、[[フランス]]の[[パリ]]に生まれる。[[パリ第11大学|オルセー大学]]で数学と物理学を学び、[[パリ大学]]の博士課程に進むが、修士号を取得したのちに退学。[[エクソンモービル|エクソン]]のフランス子会社や[[ヒューレット・パッカード]]勤務の後、1981年に[[Apple|Apple Computer]]に移り、1985年からはアップルのフランス法人の社長となる。 |
||
1985年に[[スティーブ・ジョブズ]]のアップル離脱のキーマンとなり、[[クパチーノ (カリフォルニア州)|クパチーノ]]のアップル本社に招かれ、製品担当社長(President, Apple Products)となる。[[Macintosh II]]や[[Macintosh Portable]]の開発などの指揮をとる。 |
1985年に[[スティーブ・ジョブズ]]のアップル離脱のキーマンとなり、[[クパチーノ (カリフォルニア州)|クパチーノ]]のアップル本社に招かれ、製品担当社長(President, Apple Products)となる。[[Macintosh II]]や[[Macintosh Portable]]の開発などの指揮をとる。 |
2021年5月20日 (木) 10:28時点における版
ジャン=ルイ・ガセー | |
---|---|
生誕 |
1944年3月??日 フランス・パリ |
教育 | パリ大学・修士号 |
業績 | |
勤務先 | Allegis Capital |
設計 | Macintosh II、BeOS、PalmOS |
ジャン=ルイ・ガセー(Jean-Louis Gassée, 1944年 -)は、BeOSを開発したBe社の設立者であり、米国アクセス・システムズのCEOを務めた。2003年から Allegis Capital の Partner である。
経歴
1944年に、フランスのパリに生まれる。オルセー大学で数学と物理学を学び、パリ大学の博士課程に進むが、修士号を取得したのちに退学。エクソンのフランス子会社やヒューレット・パッカード勤務の後、1981年にApple Computerに移り、1985年からはアップルのフランス法人の社長となる。
1985年にスティーブ・ジョブズのアップル離脱のキーマンとなり、クパチーノのアップル本社に招かれ、製品担当社長(President, Apple Products)となる。Macintosh IIやMacintosh Portableの開発などの指揮をとる。
ガセーは、アップルはMacintoshに集中すべきだと考えていた。彼はMacintoshの外部ライセンスに反対の立場をとり、またジョン・スカリーが積極的に推し進めていたNewton MessagePadの開発に対しても、自身が開発許可を与えたにもかかわらず批判的な立場であった。結局はスカリーとの対立がもとで1990年アップルを退社することになった。退社に際しては、ポータブルと称するには余りにも巨大なMacintosh Portableを開発した成果を評してガイ・カワサキから「ウォークマン」と称してラジカセがプレゼントされたという。
1990年、彼はBe社を設立し、C++ベースのオペレーティングシステム (OS) であるBeOSの開発に着手する。1995年に、BeOS専用機でPowerPC 603を2基搭載したBeBoxを製品化。さらにマック上で動作するBeOSを短期間で開発し、Macintosh互換機を販売していたパワーコンピューティング社にライセンスするなどした。
一方で、IBMと共同開発を行っていたTaligentや先進機能を取り入れたCoplandの開発に失敗していたアップルは、外部からのOSの調達を迫られており、1996年からBe社との交渉が始まる。ガセー本人は買収金額には執着しないと語っていたが、アップルは当初5,000万ドル程度とBe社を見積もっていたのに対しBe社はアップルに最初1億ドルを要求、アップルが他に選択肢がないとみると4億ドルまで価格を吊り上げたといわれている。
1996年末のある日、ジョブズのNEXTSTEPとの比較プレゼンテーションがアップル本社で行われた。ガセー本人は、プレゼンは単なる形式だけのもので、アップルはBeを選択するだろうと考えていたが、実はアップル側はこの時既にNeXTの採用をほぼ決めていたという。この日、何も準備をしてこなかったガセーは、完璧なプレゼンを終えたジョブズの前に敗れ去った。
BeOSはその後、x86プラットフォームに移植し、PC/AT互換機や情報家電へのバンドルに活路を求めた。日立製作所からBeOS搭載機なども発売されたが、マーケット的には失敗に終わり、2001年8月、Be社をパーム社に1,100万ドルで売却した。
2004年11月2日、2002年6月から取締役を務めていた[1]PalmSource(現ACCESS Systems)社の会長に就任し[2]2005年後半までその職にあった。
2003年から Allegis Capital のPartnerを務め、2017年現在はGeneral Partnerの職にある[3]。
著書
- Gassée (1987) (英語). The third apple : personal computers & the cultural revolution (2nd. ed.). サンディエゴ: Harcourt Brace Jovanovich. ASIN 0151898502. ISBN 0151898502
- (フランス語) Macintosh, Multiplan, MacPaint. パリ: Cedic Nathan. (1984). ISBN 2712405560. OCLC 417286410
出典
- ^ 米パームとパームソース、新人事を発表――パームソース取締役に元Beのジャン・ルイ・ガセー氏が参画 ASCII 2002年6月26日
- ^ PalmSource新会長にジャン=ルイ・ガセー氏 itmedia 2004年11月3日
- ^ VENTURE PARTNERS
外部リンク
Monday Note 共同執筆しているblog