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「ピンボール・コンストラクション・セット」の版間の差分

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バッジが[[カリフォルニア大学バークレー校]]の大学院に入ったのは1979年で、専攻はスーパーコンピュータのアーキテクチャだった。当時あったのは[[Cray-1]]と呼ばれるモデルで、大学では大型コンピュータを使っていたが、端末は操作が厄介で遅く、バッジは自分のコンピュータが欲しいと思うようになった<ref name="4gn"/>。そこで購入したのがApple IIだった。この他にも当時は様々なパソコンが発売されていたが、バッジによるとApple IIはハード的にもソフト的にもシンプルで美しいものだったという。のちの[[Macintosh]]と異なり、複数の拡張スロットを備えたオープンなアーキテクチャであったため、マニュアルにはマシンのことが細かく説明されており、回路図やシステムソフトウェアのソースコードなども公開されていたという。マニュアルは手描き感覚で親しみやすかった。ただし値段は非常に高かった<ref name="4gn"/>。
バッジが[[カリフォルニア大学バークレー校]]の大学院に入ったのは1979年で、専攻はスーパーコンピュータのアーキテクチャだった。当時あったのは[[Cray-1]]と呼ばれるモデルで、大学では大型コンピュータを使っていたが、端末は操作が厄介で遅く、バッジは自分のコンピュータが欲しいと思うようになった<ref name="4gn"/>。そこで購入したのがApple IIだった。この他にも当時は様々なパソコンが発売されていたが、バッジによるとApple IIはハード的にもソフト的にもシンプルで美しいものだったという。のちの[[Macintosh]]と異なり、複数の拡張スロットを備えたオープンなアーキテクチャであったため、マニュアルにはマシンのことが細かく説明されており、回路図やシステムソフトウェアのソースコードなども公開されていたという。マニュアルは手描き感覚で親しみやすかった。ただし値段は非常に高かった<ref name="4gn"/>。
=== 初のゲーム制作と販売 ===
=== 初のゲーム制作と販売 ===
バッジが心惹かれたのはグラフィックスで、Apple IIにはハイレゾモードが用意されており、これはメインメモリにマッピングされていた。バッジは、マニュアルにあった『ブレイクアウト{{efn2|日本では『[[ブロックくずし]]』として知られる。}}』のBASICコードを打ち込み、いろいろな数値を書き換えることでその秘密に迫っていった。当時はフロッピーディスクはなく、[[カセットテープ]]にプログラムをセーブしていたが、ロードに時間がかかり、ようやく動き始めても『ブレイクアウト』は話にならないほど動作が遅かった<ref name="4gn"/>。このようにしてApple IIのわずか64KBしかないメモリ{{efn2|バッジは「現在のアイコンより小さい」と述べる}}の詳細や、CPUである[[MOS 6502]]のプログラミングモデルなどを学び、最初のゲームを制作したが、この時にはすでに、バッジが独自に開発したグラフィックスルーチンが使われていたという。ゲームそのものは、地元のレストランで見た「[[ポン (ゲーム)|Pong]]」のクローンだった<ref name="4gn"/>。出来上がったゲームを、友人の伝手で[[アップル (企業)|アップル]]に売りに行ったバッジは、金ではなくそこにあった[[プリンター]]をもらった{{efn2|当時のアップルは、まだビルではなく貸しオフィスに入っており、急成長により社内は混乱状態だったという。プリンターは700ドルぐらいはしたので、いい取引だと思ったらしい<ref name="4gn"/>。}}。
バッジが心惹かれたのはグラフィックスで、Apple IIにはハイレゾモードが用意されており、これはメインメモリにマッピングされていた。バッジは、マニュアルにあった『ブレイクアウト{{efn2|日本では『[[ブロックくずし]]』として知られる。}}』のBASICコードを打ち込み、いろいろな数値を書き換えることでその秘密に迫っていった。当時はフロッピーディスクはなく、[[カセットテープ]]にプログラムをセーブしていたが、ロードに時間がかかり、ようやく動き始めても『ブレイクアウト』は話にならないほど動作が遅かった<ref name="4gn"/>。このようにしてApple IIのわずか64KBしかないメモリ{{efn2|バッジは「現在のアイコンより小さい」と述べる}}の詳細や、CPUである[[MOS 6502]]のプログラミングモデルなどを学び、最初のゲームを制作したが、この時にはすでに、バッジが独自に開発したグラフィックスルーチンが使われていたという。ゲームそのものは、地元のレストランで見た「[[ポン (ゲーム)|Pong]]」のクローンだった<ref name="4gn"/>。出来上がったゲームを、友人の伝手で[[Apple]]に売りに行ったバッジは、金ではなくそこにあった[[プリンター]]をもらった{{efn2|当時のアップルは、まだビルではなく貸しオフィスに入っており、急成長により社内は混乱状態だったという。プリンターは700ドルぐらいはしたので、いい取引だと思ったらしい<ref name="4gn"/>。}}。


転機は友人と組んで発売したゲームで7000ドルを稼いだことだった。California Pacific Computerという名前の会社から『Pinball』、『Night Driver』、そして『Space War』という3本をセットにした『Bill Budge's Trilogy Games』というフロッピーディスク1枚のゲームを地元のゲームショップで販売した。これがバッジの制作した最初のピンボールゲームになるようだが、[[小切手]]をもらった時には信じられない思いだったという<ref name="4gn"/>。
転機は友人と組んで発売したゲームで7000ドルを稼いだことだった。California Pacific Computerという名前の会社から『Pinball』、『Night Driver』、そして『Space War』という3本をセットにした『Bill Budge's Trilogy Games』というフロッピーディスク1枚のゲームを地元のゲームショップで販売した。これがバッジの制作した最初のピンボールゲームになるようだが、[[小切手]]をもらった時には信じられない思いだったという<ref name="4gn"/>。

2021年5月20日 (木) 13:01時点における版

ピンボール・コンストラクション・セット
Pinball Construction Set
ジャンル コンピュータゲーム制作
ピンボールシミュレーション
対応機種 Apple II/Atari 8ビット・コンピュータ/コモドール64/Macintosh/IBM PC(booter)
開発元 BudgeCo
発売元 BudgeCo
エレクトロニック・アーツ
Ariolasoft(ヨーロッパ)
デザイナー ビル・バッジ
人数 1人
発売日 1983年
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ピンボール・コンストラクション・セット(Pinball Construction Set)は、ビル・バッジが作成し、エレクトロニック・アーツから発売されたコンピュータゲーム。1983年にApple II用にリリースされた後、Atari 8ビット・コンピュータコモドール64にも移植された。

概要

ピンボール・コンストラクション・セット(以下『PCS』)は、コンピュータ上でピンボールをプレイするゲームの一種でもあり、「ゲーム作成ツール」といったジャンルの先駆けとも言えるソフトである[1]。ユーザーはバンパー、フリッパー、スピナーなどの部品を設置して、架空のピンボールを作成することができる。重力など物理モデルの変更もできる。ユーザーは作成したデータをフロッピーディスクに保存し、自由に交換できた。プレイのみならば本作は必要ない[2]

制作

当時のコンピュータ

バッジがカリフォルニア大学バークレー校の大学院に入ったのは1979年で、専攻はスーパーコンピュータのアーキテクチャだった。当時あったのはCray-1と呼ばれるモデルで、大学では大型コンピュータを使っていたが、端末は操作が厄介で遅く、バッジは自分のコンピュータが欲しいと思うようになった[1]。そこで購入したのがApple IIだった。この他にも当時は様々なパソコンが発売されていたが、バッジによるとApple IIはハード的にもソフト的にもシンプルで美しいものだったという。のちのMacintoshと異なり、複数の拡張スロットを備えたオープンなアーキテクチャであったため、マニュアルにはマシンのことが細かく説明されており、回路図やシステムソフトウェアのソースコードなども公開されていたという。マニュアルは手描き感覚で親しみやすかった。ただし値段は非常に高かった[1]

初のゲーム制作と販売

バッジが心惹かれたのはグラフィックスで、Apple IIにはハイレゾモードが用意されており、これはメインメモリにマッピングされていた。バッジは、マニュアルにあった『ブレイクアウト[注 1]』のBASICコードを打ち込み、いろいろな数値を書き換えることでその秘密に迫っていった。当時はフロッピーディスクはなく、カセットテープにプログラムをセーブしていたが、ロードに時間がかかり、ようやく動き始めても『ブレイクアウト』は話にならないほど動作が遅かった[1]。このようにしてApple IIのわずか64KBしかないメモリ[注 2]の詳細や、CPUであるMOS 6502のプログラミングモデルなどを学び、最初のゲームを制作したが、この時にはすでに、バッジが独自に開発したグラフィックスルーチンが使われていたという。ゲームそのものは、地元のレストランで見た「Pong」のクローンだった[1]。出来上がったゲームを、友人の伝手でAppleに売りに行ったバッジは、金ではなくそこにあったプリンターをもらった[注 3]

転機は友人と組んで発売したゲームで7000ドルを稼いだことだった。California Pacific Computerという名前の会社から『Pinball』、『Night Driver』、そして『Space War』という3本をセットにした『Bill Budge's Trilogy Games』というフロッピーディスク1枚のゲームを地元のゲームショップで販売した。これがバッジの制作した最初のピンボールゲームになるようだが、小切手をもらった時には信じられない思いだったという[1]

アップルへの入社

1980年にバッジはアップルに入社することになった。担当したのは開発中のApple IIIと、次世代機のLisaだったが、結局アップルは1年で退社しフリーのゲーム開発者に戻る。Apple IIIもLisaも商業的には失敗作となったが、アップルで得たものもあった。それは優れた人々に囲まれて仕事ができたことで、特にApple IIをほぼ一人で開発した伝説的エンジニア、スティーブ・ウォズニアックからApple IIの秘密を聞けたのは、素晴らしい経験だったという[1]

BudgeCoの設立

バッジはアップル退社後に、自分の会社であるBudgeCoを立ち上げ、1981年にピンボールゲーム『Raster Blaster』をリリースする。その作品で挑戦したのは、物理法則に則ったリアルなボールの動きであり、そのために重要なのは「Collision Detection(衝突判定)」だった。バッジは低い能力のApple IIで正確なボールの動きを再現するため、ポリゴンとは何かを学び、MOS 6805の機能であったゼロページを使って高速化を図り、メモリ配置を工夫し、さらに様々なテクニックを使って制作したという。衝突判定については、結局最後はほとんど手仕事でトライ&エラーを繰り返し、眠れない夜を何日も過ごしたという。グラフィックスも全てバッジが描いていた[1]

これらの努力で『Raster Blaster』は成功を収め、その次の作品として企画したのが『PCS』だった。グラフィックスツールなども制作していたバッジは、プログラミングの知識がなくても、LEGOなどの組み立て玩具のように、必要なものを並べるだけでゲームが作れるようなものはないかと考えた。そこにゼロックスパロアルト研究所が発明し、Lisaに採用され後にはMacintoshにも使われることになった、グラフィカルユーザーインタフェースのアイデアが組み合わされて、『PCS』が生まれることになった。

発売後

BudgeCoは他の大企業のような流通網を持っていなかったこともあり、当初の売上は良くなかった。そんなところ、1982年にエレクトロニック・アーツ(EA)を設立したばかりのトリップ・ホーキンスが接近してきた。バッジはEAから『PCS』を発売することに同意した[3]

生まれたばかりのEAは当初、製作者を全面に押し出すというプロモーション活動をしていたことで知られている。同社はゲーム雑誌だけでなく、音楽雑誌にも大きな広告を載せたりしており、そのためバッジもまるでロックスターのように扱われ、テレビに出演するなど有名になった[1]

『PCS』の売上は、1989年11月までに25万を超えた[4]

評価

スティーブ・ウォズニアックは、「8ビットマシン向けに書かれた最高のプログラム」と評した。1983年の『Computer Gaming World』では、「この商品には魔法のようなものがある。あなたが作った全てのものを数分後には手にできる」と語り、8歳児でも問題なく扱えるもので、プログラミング知識も必要ないので9ページある説明書は過剰とも述べている[5]。『Video magazine』のコラム「Arcade Alley」においては、Atari 800版について「非常に巧みで扱いやすいプログラム」と評している[6]

1984年の『バイト』誌では、「このゲームに問題があるとは思えない…創造性が推奨され、優しく手助けされている。これは子供やコンピュータ初心者に価値のあるものだ。」と述べている[7]。『InfoWorld』誌では、ゲームとしての重要性をスコット・アダムズの『Adventureland』と比較し、「将来多くの子や孫が生まれているだろう」と予言している[8]。Addison-Wesleyの『Atari Software 1984』では「A+」にレイティングされ、ユーザーインターフェイスを「非常に人間工学的」と称賛している[9]。『Compute!』誌では1988年の「お気に入りのゲーム」の一つに挙げ、本作を「芸術的なプログラミング…決して古くはない古典」と呼んだ[10]オースン・スコット・カードは1989年に雑誌で、このプログラムが非常に柔軟性があり、自身の息子もグラフィックス・プログラムとして使用していると語っている[11]

影響

EAは本作に続いて、『Music Construction Set』、『Adventure Construction Set』、『Racing Destruction Set』といった、同様のコンセプトを持ったソフトをリリースしている。

日本でもパソコンゲーム誌『ログイン』などで話題になっており、この後の日本のビデオゲーム、特にパソコン用ソフトでは、面を作る機能を含め、ゲーム作成ツール全般を「コンストラクション」と呼ぶことが流行した[12]

2012年のGame Developers Conferenceでは、ウィル・ライトが『PCS』に影響を受けて初代『シムシティ』を開発したと語っている[13]

その後のバッジ

バッジは『PCS』がうまくいった理由として、「小さなプロトタイプから飽きることなく改善を続けたこと」「優れた人々が傍らにいたこと」「難しい問題に大胆に挑んだこと」「最適化に重点を置いたこと」、そして「面白いことをすべてまとめるためにハードワークを重ねたこと」を挙げている。また、あまりうまくいかなかったこととして、ツールが不十分であったことや,最適化がまだ不十分であったこと[注 4]、そしてコードにほとんどコメントを付けなかったことを挙げている[注 5]

若くしてスターとなったバッジは、その後もいくつかのタイトルを制作したものの、1980年代中頃には半ば引退という形でゲーム業界を去った。その後再びゲーム業界に復帰し、1993年に『Virtual Pinball』をメガドライブ向けにリリースした。

2013年にはMIT Licenseの下、『PCS』のAtari 8ビット版のソースコードGitHubに公開した[14][15]

脚注

注釈

  1. ^ 日本では『ブロックくずし』として知られる。
  2. ^ バッジは「現在のアイコンより小さい」と述べる
  3. ^ 当時のアップルは、まだビルではなく貸しオフィスに入っており、急成長により社内は混乱状態だったという。プリンターは700ドルぐらいはしたので、いい取引だと思ったらしい[1]
  4. ^ 最終的にはアセンブラで2000行ほどのゲームだったそうだが、バッジは「今見るとメモリ配置でミスをしている」と語っている[1]
  5. ^ コメント不足のせいで移植の際は非常に苦労したらしい[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l [GDC 2013]ビル・バッジ氏が語る「Pinball Construction Set」制作の舞台裏。ゲーム制作ツールをゲームにした独創的な作品はどのように生まれたか”. 4Gamer.net (2013年3月29日). 2018年9月20日閲覧。
  2. ^ Davies, Lloyd (May 1984). “Pinball Construction Set”. Ahoy!: pp. 49. https://archive.org/stream/ahoy-magazine-05/Ahoy_05_May_1984#page/n47/mode/2up 16 October 2013閲覧。 
  3. ^ The Pinball Wizard”. 2018年11月4日閲覧。
  4. ^ Staff (November 1989). “Chart-Busters; SPA Platinum”. Game Players (5): 112. 
  5. ^ Besndard, John (May–June 1983), “Pinball Construction Set”, Computer Gaming World: pp. 12, 43, http://www.cgwmuseum.org/galleries/index.php?year=1983&pub=2&id=10 
  6. ^ Kunkel, Bill; Katz, Arnie (October 1983). “Arcade Alley: From Pinball to Purgatory at Electronic Arts”. Video (Reese Communications) 7 (7): 30–32. ISSN 0147-8907. 
  7. ^ Holden, Elaine (January 1984). “Pinball Construction Set”. BYTE: pp. 282. https://archive.org/stream/byte-magazine-1984-01/BYTE-1984-01#page/n283/mode/2up 22 October 2013閲覧。 
  8. ^ Mace, Scott (9–16 January 1984). “Electronic Antics”. InfoWorld: pp. 69. https://books.google.com/books?id=ey4EAAAAMBAJ&lpg=PA14&ots=qxysACmBMb&pg=PA69#v=onepage&f=false 4 February 2015閲覧。 
  9. ^ Stanton, Jeffrey; Wells, Robert P.; Rochowansky, Sandra et al., eds (1984). The Addison-Wesley Book of Atari Software. Addison-Wesley. pp. 128–129. ISBN 0-201-16454-X. https://archive.org/stream/Atari_Software_1984#page/n127/mode/2up 
  10. ^ “Our Favorite Games”. Compute!: pp. 12. (May 1988). https://archive.org/stream/1988-05-compute-magazine/Compute_Issue_096_1988_May#page/n13/mode/2up 10 November 2013閲覧。 
  11. ^ Card, Orson Scott (January 1989). “Gameplay”. Compute!: pp. 12. https://archive.org/stream/1989-01-compute-magazine/Compute_Issue_104_1989_Jan#page/n13/mode/2up 10 November 2013閲覧。 
  12. ^ レベルデザインの「レベル」って何だ?──ボックス、メイズ、パーセクにマウンテン!? ゲームの「面」の呼びかたいろいろ”. 電ファミニコゲーマー (2018年8月1日). 2018年12月6日閲覧。
  13. ^ [GDC 2012]意外? それともやっぱり? ゲーム業界の大御所の人生を決めた1本とは”. 4Gamer.net (2012年3月10日). 2018年12月6日閲覧。
  14. ^ I just pushed the source for Pinball Construction Set to github (thanks to Scott Cronce at EA) on twitter.com
  15. ^ billbudge/PCS_Atari800”. GitHub. February 13, 2013閲覧。

関連項目

外部リンク