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「国会議事堂 (ハンガリー)」の版間の差分

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[[1867年]]、[[ハプスブルク帝国]]の支配下にあった[[ハンガリー王国]]は、[[アウスグライヒ]]により[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー君主国]]となり、[[オーストリア帝国]]と対等の[[国家連合]]を形成することになった。(元首が国王のハンガリー王国と元首が皇帝のオーストリア帝国の国家連合なのでオーストリア=ハンガリー[[君主国]]。)ハンガリー王国政府は、[[1873年]][[ブダ]]と[[オーブダ]]、[[ペシュト]]の3市を合併して[[ブダペスト|ブダペシュト]]市(日本では英語からブダペスト市として定着)を作り、ここを首都と定める。7年後の[[1880年]]に国会は、国の独立を示す、新しくて国を代表するような国会議事堂の建設を決議。[[コンペティション]]が公布され、シュテインドル・イムレ ({{lang|hu|Steindl Imre}} {{IPA|ˈʃtɛindl ˌimrɛ}}) ([[:hu:Steindl Imre|hu]]) に任されることとなった。ほか2人の案も採用され、それぞれ民族博物館と農業博物館の建設を任された。
[[1867年]]、[[ハプスブルク帝国]]の支配下にあった[[ハンガリー王国]]は、[[アウスグライヒ]]により[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー君主国]]となり、[[オーストリア帝国]]と対等の[[国家連合]]を形成することになった。(元首が国王のハンガリー王国と元首が皇帝のオーストリア帝国の国家連合なのでオーストリア=ハンガリー[[君主国]]。)ハンガリー王国政府は、[[1873年]][[ブダ]]と[[オーブダ]]、[[ペシュト]]の3市を合併して[[ブダペスト|ブダペシュト]]市(日本では英語からブダペスト市として定着)を作り、ここを首都と定める。7年後の[[1880年]]に国会は、国の独立を示す、新しくて国を代表するような国会議事堂の建設を決議。[[コンペティション]]が公布され、シュテインドル・イムレ ({{lang|hu|Steindl Imre}} {{IPA|ˈʃtɛindl ˌimrɛ}}) ([[:hu:Steindl Imre|hu]]) に任されることとなった。ほか2人の案も採用され、それぞれ民族博物館と農業博物館の建設を任された。


[[1885年]]に建設が始まり、[[1896年]]には[[:hu:Honfoglalás|征服定住]]千年祭<ref>[[896年]]に[[マジャル人]](ハンガリー人)の[[カルパチア盆地]]への[[:hu:Honfoglalás|征服定住]]が完了した。[[1896年]]はハンガリー人がカルパチア盆地を征服し、そこに定住してからの千年祭を祝うものであった。日本ではしばしば「建国千年祭」と語訳されるが、ハンガリー王国の初代国王の[[イシュトヴァーン1世]]が戴冠し、[[ハンガリー王国]]が成立したのが[[1000年]][[12月25日]]または[[1001年]][[1月1日]]だったので、[[2000年]]に「建国千年祭」が祝われている。</ref>が開始され、[[1904年]]に完成。シュテインドルは完成を見ることなく、[[1902年]]に亡くなっている。国会議事堂の建設にはおよそ1000人が従事し、4000万個のレンガ、50万の宝石と40kgの金が使われた。
[[1885年]]に建設が始まり、[[1896年]]には[[:hu:Honfoglalás|征服定住]]千年祭<ref>[[896年]]に[[マジャル人]](ハンガリー人)の[[カルパチア盆地]]への[[:hu:Honfoglalás|征服定住]]が完了した。[[1896年]]はハンガリー人がカルパチア盆地を征服し、そこに定住してからの千年祭を祝うものであった。日本ではしばしば「建国千年祭」と語訳されるが、ハンガリー王国の初代国王の[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]が戴冠し、[[ハンガリー王国]]が成立したのが[[1000年]][[12月25日]]または[[1001年]][[1月1日]]だったので、[[2000年]]に「建国千年祭」が祝われている。</ref>が開始され、[[1904年]]に完成。シュテインドルは完成を見ることなく、[[1902年]]に亡くなっている。国会議事堂の建設にはおよそ1000人が従事し、4000万個のレンガ、50万の宝石と40kgの金が使われた。


[[第二次世界大戦]]後の[[社会主義]]体制から[[ハンガリー民主化運動|体制転換]]する前年の[[1989年]][[10月23日]]、この国会議事堂で国号を「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へ改称することが宣言された。
[[第二次世界大戦]]後の[[社会主義]]体制から[[ハンガリー民主化運動|体制転換]]する前年の[[1989年]][[10月23日]]、この国会議事堂で国号を「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へ改称することが宣言された。
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内外の壁には、全部で242体の彫刻が施されている。ファサードの上部には、歴代のハンガリー統治者、[[トランシルヴァニア]]の統治者、及び有名な軍人たちの彫像がある。窓の上部には王侯貴族の[[紋章]]が描かれている。正面玄関は東側にある階段で、2頭のライオンの像が並んでいる。
内外の壁には、全部で242体の彫刻が施されている。ファサードの上部には、歴代のハンガリー統治者、[[トランシルヴァニア]]の統治者、及び有名な軍人たちの彫像がある。窓の上部には王侯貴族の[[紋章]]が描かれている。正面玄関は東側にある階段で、2頭のライオンの像が並んでいる。


ハンガリー王が代々受け継いできた、[[聖イシュトヴァーンの王冠]]と宝珠や宝剣、王杓などの戴冠式用の品がこの議事堂内で保管展示されている。議会が開かれていない日に限り、専門ガイドによる見学ツアーで議事堂内の見学ができる。見学ツアーに参加した観光客は、豪奢な装飾が施された大階段を登り、天井に描かれた[[フレスコ画]]を仰ぎ、壁がんにあるシュテインドル・イムレの胸像の前を通過する。ここにはほかに、アールパードや[[イシュトヴァーン1世]]、[[フニャディ・ヤーノシュ]]の像もある。国会議事堂の中で最も有名なものの1つが16角形の形をした議場であり、[[衆議院]]([[下院]])(今日ではここで国会が開かれる)、[[貴族院]]([[上院]])(1945年まで存在。現在のハンガリーは衆議院のみの[[一院制]]である)などたくさんの部屋と隣接している。ロート・ミクシャ({{lang|hu|Róth Miksa}} {{IPA|ˈroːt ˌmikʃɒ}})によるステンドグラスとガラスのモザイク絵もまた、特徴の1つとして数えられている。
ハンガリー王が代々受け継いできた、[[聖イシュトヴァーンの王冠]]と宝珠や宝剣、王杓などの戴冠式用の品がこの議事堂内で保管展示されている。議会が開かれていない日に限り、専門ガイドによる見学ツアーで議事堂内の見学ができる。見学ツアーに参加した観光客は、豪奢な装飾が施された大階段を登り、天井に描かれた[[フレスコ画]]を仰ぎ、壁がんにあるシュテインドル・イムレの胸像の前を通過する。ここにはほかに、アールパードや[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]、[[フニャディ・ヤーノシュ]]の像もある。国会議事堂の中で最も有名なものの1つが16角形の形をした議場であり、[[衆議院]]([[下院]])(今日ではここで国会が開かれる)、[[貴族院]]([[上院]])(1945年まで存在。現在のハンガリーは衆議院のみの[[一院制]]である)などたくさんの部屋と隣接している。ロート・ミクシャ({{lang|hu|Róth Miksa}} {{IPA|ˈroːt ˌmikʃɒ}})によるステンドグラスとガラスのモザイク絵もまた、特徴の1つとして数えられている。


あまりにも広大で、繊細な手仕事で作られた建物のため、常に建物のどこかで補修工事が行われている状態にある。
あまりにも広大で、繊細な手仕事で作られた建物のため、常に建物のどこかで補修工事が行われている状態にある。

2021年5月24日 (月) 20:47時点における版

ハンガリーの国会議事堂

国会議事堂(こっかいぎじどう、ハンガリー語: Országház [ˈorsɑ̈ːkhɑ̈ːz] 翻字はオルサーグハーズ、実際の発音はオルサークハーズ)は、ハンガリー立法府である国会議事堂。首都ブダペストドナウ川岸辺、コシュート・ラヨシュ広場に位置する。ハンガリー国内で最も大きな建築物であり、ヨーロッパで二番目、世界で三番目に大きな国会議事堂である(hu)。

概要

1867年ハプスブルク帝国の支配下にあったハンガリー王国は、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー君主国となり、オーストリア帝国と対等の国家連合を形成することになった。(元首が国王のハンガリー王国と元首が皇帝のオーストリア帝国の国家連合なのでオーストリア=ハンガリー君主国。)ハンガリー王国政府は、1873年ブダオーブダペシュトの3市を合併してブダペシュト市(日本では英語からブダペスト市として定着)を作り、ここを首都と定める。7年後の1880年に国会は、国の独立を示す、新しくて国を代表するような国会議事堂の建設を決議。コンペティションが公布され、シュテインドル・イムレ (Steindl Imre [ˈʃtɛindl ˌimrɛ]) (hu) に任されることとなった。ほか2人の案も採用され、それぞれ民族博物館と農業博物館の建設を任された。

1885年に建設が始まり、1896年には征服定住千年祭[1]が開始され、1904年に完成。シュテインドルは完成を見ることなく、1902年に亡くなっている。国会議事堂の建設にはおよそ1000人が従事し、4000万個のレンガ、50万の宝石と40kgの金が使われた。

第二次世界大戦後の社会主義体制から体制転換する前年の1989年10月23日、この国会議事堂で国号を「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へ改称することが宣言された。

特徴

ウェストミンスター宮殿同様、ゴシック・リヴァイヴァル建築である。左右対称のファサード、そして中央にドームがある。

建物長268m、建物幅123m。内部には、10の中庭、13の乗客兼貨物用エレベーター、27の門、29の階段室、691の部屋がある。建物高は96mと、聖イシュトヴァーン大聖堂とともに、ブダペストで最も高い建物である。この「96」という数字は1896年の征服定住1000年目を、そしてアールパード朝初代の君主アールパードカルパチア盆地征服定住の年、896年にも因んでいる。

内外の壁には、全部で242体の彫刻が施されている。ファサードの上部には、歴代のハンガリー統治者、トランシルヴァニアの統治者、及び有名な軍人たちの彫像がある。窓の上部には王侯貴族の紋章が描かれている。正面玄関は東側にある階段で、2頭のライオンの像が並んでいる。

ハンガリー王が代々受け継いできた、聖イシュトヴァーンの王冠と宝珠や宝剣、王杓などの戴冠式用の品がこの議事堂内で保管展示されている。議会が開かれていない日に限り、専門ガイドによる見学ツアーで議事堂内の見学ができる。見学ツアーに参加した観光客は、豪奢な装飾が施された大階段を登り、天井に描かれたフレスコ画を仰ぎ、壁がんにあるシュテインドル・イムレの胸像の前を通過する。ここにはほかに、アールパードやイシュトヴァーン1世フニャディ・ヤーノシュの像もある。国会議事堂の中で最も有名なものの1つが16角形の形をした議場であり、衆議院下院)(今日ではここで国会が開かれる)、貴族院上院)(1945年まで存在。現在のハンガリーは衆議院のみの一院制である)などたくさんの部屋と隣接している。ロート・ミクシャ(Róth Miksa [ˈroːt ˌmikʃɒ])によるステンドグラスとガラスのモザイク絵もまた、特徴の1つとして数えられている。

あまりにも広大で、繊細な手仕事で作られた建物のため、常に建物のどこかで補修工事が行われている状態にある。

脚注

  1. ^ 896年マジャル人(ハンガリー人)のカルパチア盆地への征服定住が完了した。1896年はハンガリー人がカルパチア盆地を征服し、そこに定住してからの千年祭を祝うものであった。日本ではしばしば「建国千年祭」と語訳されるが、ハンガリー王国の初代国王のイシュトヴァーン1世が戴冠し、ハンガリー王国が成立したのが1000年12月25日または1001年1月1日だったので、2000年に「建国千年祭」が祝われている。

ギャラリー

関連項目

外部リンク

座標: 北緯47度30分25秒 東経19度2分44秒 / 北緯47.50694度 東経19.04556度 / 47.50694; 19.04556