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「オットー・フォン・ノルトハイム」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
1061年、幼少のローマ王[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の摂政であった[[アグネス・フォン・ポワトゥー|アグネス]]は、自身の保持していたバイエルン大公位をオットーに与えた。1062年4月、ケルン大司教アンノが12歳であったハインリヒ4世を誘拐し帝国の実権を握ったが、オットーはこのアンノによる国王の誘拐を事前に了解していたとされる<ref>瀬原、p.293</ref>。[[1063年]]にはハンガリーに出陣し、オットーはハンガリー王の甥[[シャラモン (ハンガリー王)|シャラモン]]を支持しハンガリー王[[ベーラ1世]]と戦った。その結果ベーラ1世は敗死、シャラモンがハンガリー王として即位した。オットーはこの功により、シャラモンの王母[[アナスタシヤ・ヤロスラヴナ|アナスタシヤ]]からハンガリーの財宝「フン族の大王アッチラの剣」といわれるサーベルを授与された<ref>瀬原、p.289</ref>。
1061年、幼少のローマ王[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]の摂政であった[[アグネス・フォン・ポワトゥー|アグネス]]は、自身の保持していたバイエルン大公位をオットーに与えた。1062年4月、ケルン大司教アンノが12歳であったハインリヒ4世を誘拐し帝国の実権を握ったが、オットーはこのアンノによる国王の誘拐を事前に了解していたとされる<ref>瀬原、p.293</ref>。[[1063年]]にはハンガリーに出陣し、オットーはハンガリー王の甥[[シャラモン (ハンガリー王)|シャラモン]]を支持しハンガリー王[[ベーラ1世 (ハンガリー王)|ベーラ1世]]と戦った。その結果ベーラ1世は敗死、シャラモンがハンガリー王として即位した。オットーはこの功により、シャラモンの王母[[アナスタシヤ・ヤロスラヴナ|アナスタシヤ]]からハンガリーの財宝「フン族の大王アッチラの剣」といわれるサーベルを授与された<ref>瀬原、p.289</ref>。


[[1065年]]、ハインリヒ4世は親政を開始し、失われた王領地の回復にあたった。その中で、オットーのザクセンの所領がハインリヒの王領地拡張政策にとって障害となり<ref>瀬原、p.304</ref>、オットーはハインリヒ4世と対立することとなった。オットーはハインリヒ4世暗殺を計画したと告発され、決闘を挑まれた。しかし、オットーはこの決闘に応じず、このため[[1070年]]、バイエルン大公位および領地を取り上げられ、大公位はオットーの女婿であった[[ヴェルフ1世 (バイエルン公)|ヴェルフ1世]]に与えられた。これに対しオットーは、ザクセン大公の子[[マグヌス (ザクセン公)|マグヌス・ビルング]]と同盟し、ハインリヒ4世に対し反乱を起こしたものの、1071年初めに降伏し拘束された。しかし翌[[1072年]]には解放され、帝国授封領を除く領地が返還された。
[[1065年]]、ハインリヒ4世は親政を開始し、失われた王領地の回復にあたった。その中で、オットーのザクセンの所領がハインリヒの王領地拡張政策にとって障害となり<ref>瀬原、p.304</ref>、オットーはハインリヒ4世と対立することとなった。オットーはハインリヒ4世暗殺を計画したと告発され、決闘を挑まれた。しかし、オットーはこの決闘に応じず、このため[[1070年]]、バイエルン大公位および領地を取り上げられ、大公位はオットーの女婿であった[[ヴェルフ1世 (バイエルン公)|ヴェルフ1世]]に与えられた。これに対しオットーは、ザクセン大公の子[[マグヌス (ザクセン公)|マグヌス・ビルング]]と同盟し、ハインリヒ4世に対し反乱を起こしたものの、1071年初めに降伏し拘束された。しかし翌[[1072年]]には解放され、帝国授封領を除く領地が返還された。

2021年5月24日 (月) 20:54時点における版

オットー・フォン・ノルトハイム
Otto von Nordheim
バイエルン大公
在位 1061年 - 1070年

称号 ノルトハイム
出生 1020年頃
死去 1083年1月11日
配偶者 リヒェンツァ・フォン・シュヴァーベン
子女 ハインリヒ
クーノ
イーダ
エテリンデ
家名 ノルトハイム家
父親 ベルンハルト・フォン・ノルトハイム
母親 アイリカ
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オットー・フォン・ノルトハイム(Otto von Nordheim, 1020年頃 - 1083年1月11日)は、中世ドイツのザクセン地方出身の貴族。ノルトハイム伯。バイエルン大公(オットー2世、在位:1061年 - 1070年)。

生涯

1061年、幼少のローマ王ハインリヒ4世の摂政であったアグネスは、自身の保持していたバイエルン大公位をオットーに与えた。1062年4月、ケルン大司教アンノが12歳であったハインリヒ4世を誘拐し帝国の実権を握ったが、オットーはこのアンノによる国王の誘拐を事前に了解していたとされる[1]1063年にはハンガリーに出陣し、オットーはハンガリー王の甥シャラモンを支持しハンガリー王ベーラ1世と戦った。その結果ベーラ1世は敗死、シャラモンがハンガリー王として即位した。オットーはこの功により、シャラモンの王母アナスタシヤからハンガリーの財宝「フン族の大王アッチラの剣」といわれるサーベルを授与された[2]

1065年、ハインリヒ4世は親政を開始し、失われた王領地の回復にあたった。その中で、オットーのザクセンの所領がハインリヒの王領地拡張政策にとって障害となり[3]、オットーはハインリヒ4世と対立することとなった。オットーはハインリヒ4世暗殺を計画したと告発され、決闘を挑まれた。しかし、オットーはこの決闘に応じず、このため1070年、バイエルン大公位および領地を取り上げられ、大公位はオットーの女婿であったヴェルフ1世に与えられた。これに対しオットーは、ザクセン大公の子マグヌス・ビルングと同盟し、ハインリヒ4世に対し反乱を起こしたものの、1071年初めに降伏し拘束された。しかし翌1072年には解放され、帝国授封領を除く領地が返還された。

1073年、ザクセン貴族は国王ハインリヒ4世に対し反乱を起こし(ザクセン戦争)、オットーはザクセン貴族の指導者の一人となった。ザクセン軍は常に王軍を圧倒し、1074年にザクセン勢はザクセン内の王の城の破却など優位な条件でハインリヒ4世と和議を結んだ。これに対し、ハインリヒ4世は城の破却をなかなか実行せず、これにザクセン農民およびオットーをはじめとする一部のザクセン貴族が反発し、1075年再びハインリヒ4世に対して反乱を起こした。しかし、今度は王軍がザクセン軍より優位に立ち、1075年10月、ゾンダーハウゼンの戦いにおいてザクセン軍は敗れた。オットーは捕えられたものの、のち赦され、1070年に取り上げられた帝国授封領のうちバイエルン大公国を除く領地が再び授けられた上、ザクセン総督となりハインリヒの王領地拡張政策を継続していくこととなった。

1077年ルドルフ・フォン・ラインフェルデンがドイツ対立王に選ばれ、オットーはザクセンにおいてルドルフを支持した。1080年に対立王ルドルフとオットーは、ハインリヒ4世とエルスター河畔で争い、ルドルフは戦いで受けた傷がもとで死去した。翌年に選出された対立王ヘルマン・フォン・ザルムを引き続きオットーは支えたが、1083年オットーは死去した。

子女

エッツォ家シュヴァーベン大公オットー2世の娘でヴェルル伯ヘルマン3世の寡婦リヒェンツァと結婚、以下の子女がいる。

引用

  1. ^ 瀬原、p.293
  2. ^ 瀬原、p.289
  3. ^ 瀬原、p.304

参考文献

  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
先代
アグネス・フォン・ポワトゥー
バイエルン公
1061年 - 1070年
次代
ヴェルフ1世