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「クンピア・トゥルジー」の版間の差分

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'''クンピア・トゥルジー'''({{lang-ro|Câmpia Turzii、Cîmpia Turzii}}、[[ドイツ語]]名:イェリシュマルクト(Jerischmarkt)、[[ハンガリー語]]名:アラニョシュジェーレシュ(Aranyosgyéres))は、[[ルーマニア]]の[[クルジュ県]]に属する都市。1925年にギリシュ(ハンガリー語名:アラニョシュジェーレシュ)とスンクライ(同:セントキラーリ(Szentkirály))の2つの村が合併して生まれた。
'''クンピア・トゥルジー'''({{lang-ro|Câmpia Turzii、Cîmpia Turzii}}、[[ドイツ語]]名:イェリシュマルクト(Jerischmarkt)、[[ハンガリー語]]名:アラニョシュジェーレシュ(Aranyosgyéres))は、[[ルーマニア]]の[[クルジュ県]]に属する都市。1925年にギリシュ(ハンガリー語名:アラニョシュジェーレシュ)とスンクライ(同:セントキラーリ(Szentkirály))の2つの村が合併して生まれた。


1219年に書かれた文献には、スンクライ村が“villa Sancti Regis”(聖なる王の村 の意)の名で登場する。「聖なる王」とは、この時代に神聖視されていた[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]と[[ラースロー1世]]のことで、ラースロー1世はこの地で[[クマン人]]の反乱に幾度か遭った。一方、ギリシュ村は1292年の文献が初出で、“Terra Gerusteleke”(Gerustelekeとは「Gerusの小さな土地」の意)として見える。
1219年に書かれた文献には、スンクライ村が“villa Sancti Regis”(聖なる王の村 の意)の名で登場する。「聖なる王」とは、この時代に神聖視されていた[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]と[[ラースロー1世 (ハンガリー王)|ラースロー1世]]のことで、ラースロー1世はこの地で[[クマン人]]の反乱に幾度か遭った。一方、ギリシュ村は1292年の文献が初出で、“Terra Gerusteleke”(Gerustelekeとは「Gerusの小さな土地」の意)として見える。


1601年8月9日にはミハイ勇敢公がこの地でジョルジオ・バスタの刺客により殺された。
1601年8月9日にはミハイ勇敢公がこの地でジョルジオ・バスタの刺客により殺された。

2021年5月24日 (月) 20:57時点における最新版

クンピア・トゥルジー
自治体
パゲット城
パゲット城
クンピア・トゥルジーの紋章
紋章
クンピア・トゥルジーの位置(ルーマニア内)
クンピア・トゥルジー
位置図
北緯46度32分55秒 東経23度52分48秒 / 北緯46.54861度 東経23.88000度 / 46.54861; 23.88000座標: 北緯46度32分55秒 東経23度52分48秒 / 北緯46.54861度 東経23.88000度 / 46.54861; 23.88000
 ルーマニア
クルジュ県
地位 自治体
政府
 • 市長 ヴァシンカ・ヨアン (社会民主党)
面積
 • 合計 23.78 km2
人口
(2007年7月1日)[1]
 • 合計 26,377人
 • 密度 1,100人/km2
等時帯 UTC+2 (EET)
 • 夏時間 UTC+3 (EEST)
ウェブサイト www.campiaturzii.ro/

クンピア・トゥルジールーマニア語: Câmpia Turzii、Cîmpia Turziiドイツ語名:イェリシュマルクト(Jerischmarkt)、ハンガリー語名:アラニョシュジェーレシュ(Aranyosgyéres))は、ルーマニアクルジュ県に属する都市。1925年にギリシュ(ハンガリー語名:アラニョシュジェーレシュ)とスンクライ(同:セントキラーリ(Szentkirály))の2つの村が合併して生まれた。

1219年に書かれた文献には、スンクライ村が“villa Sancti Regis”(聖なる王の村 の意)の名で登場する。「聖なる王」とは、この時代に神聖視されていたイシュトヴァーン1世ラースロー1世のことで、ラースロー1世はこの地でクマン人の反乱に幾度か遭った。一方、ギリシュ村は1292年の文献が初出で、“Terra Gerusteleke”(Gerustelekeとは「Gerusの小さな土地」の意)として見える。

1601年8月9日にはミハイ勇敢公がこの地でジョルジオ・バスタの刺客により殺された。

現在ではルーマニア空軍の第71航空基地が置かれ、2008年のNATOサミットの際にはアメリカ空軍の第323航空遠征部隊が駐屯したほか、イギリスのレイクンヒース空軍基地からF-15戦闘機が遣わされた。

人口動態[編集]

この街の直近の民族構成は以下の通り

  • ルーマニア人 - 87.14%
  • ハンガリー人 - 7.97%
  • ロマ - 4.57%
  • その他 - 0.32%

1850年には、ルーマニア人が49%、ハンガリー人が40%、ロマが10%を占めていた。

1784年からの人口の推移は以下の通り

  • 1784年 - ギリシュ:565人 スンクライ:472人
  • 1850年 - ギリシュ:1168人 スンクライ:487人
  • 1910年 - ギリシュ:1815人 スンクライ:704人
  • 1930年 - 4124人
  • 1948年 - 6310人
  • 1956年 - 1万1518人
  • 1977年 - 2万2418人
  • 2000年 - 2万9852人

脚注[編集]

  1. ^ Population as of July 1, 2007” (Romanian). INSSE (2008年4月4日). 2008年5月4日閲覧。