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「国民的君主制」の版間の差分

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* 中世[[スコットランド王国]]では、[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ドゥ・ブルース]]が'''[[スコットランド君主一覧|スコット人の王]]'''({{lang-la-short|Rex Scotorum}}, {{lang-en-short|King of Scots}})という称号を用いた([[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]も同様にスコット人の女王({{lang-en-short|Queen of Scots}})という称号を用いた)。[[アーブロース宣言]](1320年)は、スコット人の王はスコット人を代表してスコット人を支配するのであって、スコットランドの独立は王権によるまでもなくスコット人の特権によるものであるということをうたっていた。スコット人の王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]がイングランド王位を継承した後は[[グレートブリテン島|グレートブリテン]]王({{lang-en-short|King of Great Britain}})という称号が多用されるようになり、[[ウィリアムとメアリー]]がスコットランド王・同妃({{lang-en-short|King and Queen of Scotland}})という称号を用いたため、廃れていった。[[合同法 (1707年)|合同法]](1707年)がスコットランド王位とイングランド王位を統合して[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]王位({{lang-en-short|Kingdom of Great Britain}})を創設したことで、スコットランド独自の王位も廃止された。
* 中世[[スコットランド王国]]では、[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ドゥ・ブルース]]が'''[[スコットランド君主一覧|スコット人の王]]'''({{lang-la-short|Rex Scotorum}}, {{lang-en-short|King of Scots}})という称号を用いた([[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]も同様にスコット人の女王({{lang-en-short|Queen of Scots}})という称号を用いた)。[[アーブロース宣言]](1320年)は、スコット人の王はスコット人を代表してスコット人を支配するのであって、スコットランドの独立は王権によるまでもなくスコット人の特権によるものであるということをうたっていた。スコット人の王[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ6世]]がイングランド王位を継承した後は[[グレートブリテン島|グレートブリテン]]王({{lang-en-short|King of Great Britain}})という称号が多用されるようになり、[[ウィリアムとメアリー]]がスコットランド王・同妃({{lang-en-short|King and Queen of Scotland}})という称号を用いたため、廃れていった。[[合同法 (1707年)|合同法]](1707年)がスコットランド王位とイングランド王位を統合して[[グレートブリテン王国|グレートブリテン]]王位({{lang-en-short|Kingdom of Great Britain}})を創設したことで、スコットランド独自の王位も廃止された。
* [[ポルトガル王国]]の初代国王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ・エンリケス]]は'''[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル人の王]]'''({{lang-la-short|Rex Portugalensium}}, {{lang-pt-short|Rei dos Portugueses}})という称号を用いた([[オーリッケの戦い]](1139年)の後、その戦場で同志・臣民たちから推挙されて国王となったことを記念したもの)。しかし、その後の国王はポルトガル王({{lang-la-short|Rex Portugaliae}}, {{lang-pt-short|Rei de Portugal}})という称号を用いた。
* [[ポルトガル王国]]の初代国王[[アフォンソ1世 (ポルトガル王)|アフォンソ・エンリケス]]は'''[[ポルトガル君主一覧|ポルトガル人の王]]'''({{lang-la-short|Rex Portugalensium}}, {{lang-pt-short|Rei dos Portugueses}})という称号を用いた([[オーリッケの戦い]](1139年)の後、その戦場で同志・臣民たちから推挙されて国王となったことを記念したもの)。しかし、その後の国王はポルトガル王({{lang-la-short|Rex Portugaliae}}, {{lang-pt-short|Rei de Portugal}})という称号を用いた。
* 中世[[クロアチア]]王国の君主号は'''クロアチア人の王'''({{lang-la-short|Rex Chroatorum}}, {{lang-hr|Kralj Hrvata}})で、[[テマ制|ビザンツ帝国領]][[ダルマチア]]を併合した後は'''クロアチア人とダルマチア人の王'''({{lang-la-short|Rex Chroatorum Dalmatarumque}}, {{lang-hr|Kralj Hrvata i Dalmatinaca}})となった。ここでいうダルマチア人とはダルマチア諸都市([[スプリト]]、[[ザダル]]、[[トロギル]]、[[フヴァル島]]、[[ラブ島]])のラテン系住民を指す([[クロアチア]]南部の住民を指す、今日的意味のダルマチア人とは異なる)。ハンガリー王[[カールマーン1世]]が1102年に[[ビオグラード・ナ・モル]]で戴冠し、クロアチアが[[ハンガリー王国]]との[[同君連合]]に入ると、ハンガリー王の称号にクロアチアとダルマチアの王({{lang-la-short|Rex Croatiae et Dalmatiae}})という称号が加わり、クロアチアの君主号からは国民的君主制の性格が失われた。
* 中世[[クロアチア]]王国の君主号は'''クロアチア人の王'''({{lang-la-short|Rex Chroatorum}}, {{lang-hr|Kralj Hrvata}})で、[[テマ制|ビザンツ帝国領]][[ダルマチア]]を併合した後は'''クロアチア人とダルマチア人の王'''({{lang-la-short|Rex Chroatorum Dalmatarumque}}, {{lang-hr|Kralj Hrvata i Dalmatinaca}})となった。ここでいうダルマチア人とはダルマチア諸都市([[スプリト]]、[[ザダル]]、[[トロギル]]、[[フヴァル島]]、[[ラブ島]])のラテン系住民を指す([[クロアチア]]南部の住民を指す、今日的意味のダルマチア人とは異なる)。ハンガリー王[[カールマーン1世 (ハンガリー王)|カールマーン1世]]が1102年に[[ビオグラード・ナ・モル]]で戴冠し、クロアチアが[[ハンガリー王国]]との[[同君連合]]に入ると、ハンガリー王の称号にクロアチアとダルマチアの王({{lang-la-short|Rex Croatiae et Dalmatiae}})という称号が加わり、クロアチアの君主号からは国民的君主制の性格が失われた。
* 中世[[ウェールズ公国]]成立前の12世紀には、'''ブリトン人の王'''({{lang-en-short|King of the Britons}})から派生した'''[[ウェールズの君主|ウェールズ人の公]]'''({{lang-en-short|Prince of the Welsh}})という称号が用いられたことがあるが、最終的に、[[ダフィズ・アプ・ルウェリン]]{{enlink|Dafydd ap Llywelyn}}がウェールズ全域にわたる宗主権を示すために[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]]({{lang-en-short|Prince of Wales}})という称号を採用した。
* 中世[[ウェールズ公国]]成立前の12世紀には、'''ブリトン人の王'''({{lang-en-short|King of the Britons}})から派生した'''[[ウェールズの君主|ウェールズ人の公]]'''({{lang-en-short|Prince of the Welsh}})という称号が用いられたことがあるが、最終的に、[[ダフィズ・アプ・ルウェリン]]{{enlink|Dafydd ap Llywelyn}}がウェールズ全域にわたる宗主権を示すために[[プリンス・オブ・ウェールズ|ウェールズ公]]({{lang-en-short|Prince of Wales}})という称号を採用した。



2021年5月24日 (月) 21:02時点における版

国民的君主制(こくみんてきくんしゅせい、: popular monarchy)は、君主制のうち、その君主号が領地ではなく領民と結び付けられているものをいう[1]中世スコットランドなどでは標準的で、19世紀から20世紀のヨーロッパでも市民革命の結果を反映して採用されるようになった。フランス革命では、主権在民原理に根差す立憲君主制への移行に際し、ルイ16世が単なる領主ではなく国民代表たる君主であることを示すため、その称号が変更された。

現在のベルギーの王制1830年の独立革命以来の国民的君主制で、ベルギー人の王: Koning der Belgen, : Roi des Belges, : König der Belgier)という称号を用いている(国民的君主制が現存する唯一の例)。

用例

中世

近現代

関連項目

脚注

  1. ^ Martin, Kinglsey (24 Aug 2005), “The Evolution of Popular Monarchy”, Political Quarterly 7 (2): 155–78 .