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2021年5月24日 (月) 21:08時点における版
オリガ・ユーリエヴナ Ольга Юрьевна | |
---|---|
称号 | ガーリチ公妃 |
死去 |
1182年7月4日 |
埋葬 | ウラジーミル、ボゴロディチンスキー教会 |
配偶者 | ガーリチ公ヤロスラフ |
子女 |
エフロシニヤ ウラジーミル ヴィシェスラヴァ |
家名 | リューリク家 |
父親 | スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキー |
母親 | クマン人のハン・アエパの娘 |
オリガ・ユーリエヴナ(ロシア語: Ольга Юрьевна、? - 1182年7月4日[注 1])は、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーの娘である。スーズダリ公女、ガーリチ公妃。
1150年、ガーリチ公ヤロスラフと結婚した。1173年、ガーリチ公国の内紛のために、息子のウラジーミルと共にポーランド王国へ逃れた。ガーリチのボヤーレ(貴族)にはオリガ擁護に回る者もあり、その中のコンスタンチンはポーランドへ同行している。その後ルーツク、トルチェスクを経て、最終的には兄弟のフセヴォロドが領有するウラジーミルに落ち着いた。死に際し、エヴフロシニヤ(エフロシニヤ)[注 2]という名でスヒマ(ru)(Схима / 修道院の苦行的戒律を受けた正教の僧[3])となった。ウラジーミルのボゴロディチンスキー教会(ru)に埋葬された。
子
- エフロシニヤ - ノヴゴロド・セヴェルスキー公イーゴリと結婚。(『イーゴリ軍記』においてはヤロスラヴナと称されている。)
- 娘(名前不詳) - ハンガリー王イシュトヴァーン3世と結婚[要出典]
- ウラジーミル - ガーリチ公
- ヴィシェスラヴァ - ポーランド大公ミェシュコ3世の長男・オドンと結婚[4][注 3]
脚注
注釈
出典
- ^ ЛАВРЕНТЬЕВСКАЯ ЛЕТОПИСЬ
- ^ Бережков Н.Хронология русского летописания
- ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p1090
- ^ Wyrozumski J. L., Dzieje Polski piastowskiej: (VIII wiek — 1370). / Komitet red. Stanisław Grodziski. — Kraków: Fogra, 1999. — S. 153. — (Wielka historia Polski, 2)
- ^ Łaguna S., Rodowód Piastów. // Kwartalnik Historyczny, t. 11. — 1897. — S. 762—763
参考文献
- 井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年。