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「ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)」の版間の差分

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第4回十字軍は[[ヴェネツィア共和国]]の思惑もあり、[[ハンガリー王国]]ザラを攻略した後、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。詳細は[[第4回十字軍]]参照。
第4回十字軍は[[ヴェネツィア共和国]]の思惑もあり、[[ハンガリー王国]]ザラを攻略した後、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。詳細は[[第4回十字軍]]参照。


[[1204年]]のコンスタンティノープル攻略後、[[イサキオス2世アンゲロス|イサキオス2世]]の未亡人となったハンガリー王[[ベーラ3世]]の娘[[マルギト (東ローマ皇后)|マルギト]]と結婚し、[[ラテン帝国]]皇帝の最有力候補と見なされていたが、強力な皇帝を嫌うヴェネツィアの意向により[[フランドル伯]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン]]が皇帝に選ばれた。ボニファーチョはボードゥアンと対立し、同年ギリシアで[[テッサロニキ王国]]を建国した。しかし[[1207年]]9月に[[ブルガリア帝国]]の[[カロヤン・アセン|カロヤン]]に急襲され、戦死。モンフェッラート侯国を先妻の子であり長男である[[グリエルモ6世 (モンフェラート侯)|グリエルモ]]が、テッサロニキ王国はマルギトの子であり次男である[[デメトリオ・ディ・モンフェラート|デメトリオ]]が継いだ。
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== 子女 ==
== 子女 ==

2021年5月24日 (月) 21:12時点における版

ボニファーチョ1世
Bonifacio I
テッサロニキ王
第4回十字軍の指導者に選ばれるボニファーチョ(アンリ・ドケーヌ画)
在位 1205年 - 1207年
別号 モンフェッラート侯

出生 1150年
死去 1207年9月4日
配偶者 ヘレナ・デル・ボスコ
  マルギト
子女 グリエルモ6世
ベアトリーチェ
アニェーゼ
デメトリオ
家名 アレラーミチ家
父親 モンフェッラート侯グリエルモ5世
母親 ジュディッタ・ダウストリア
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モンフェッラート侯ボニファーチョ1世(Bonifacio I del Monferrato、1150年頃 - 1207年9月4日)は第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープル攻略後、テッサロニキ王国を創設した。

生涯

ボニファーチョは、モンフェッラート侯グリエルモ5世とジュディッタ・ダウストリア(オーストリア辺境伯レオポルト3世の娘)の3男として生まれ、兄にグリエルモ(ロングエペー)、モンフェッラート侯コッラード(コンラート1世)がいる。彼の父と兄2人は十字軍で活躍しており、兄グリエルモはエルサレム王女シビーユと結婚してボードゥアン5世の父となり、コンラートは第3回十字軍時にティルスの防衛に活躍し、シビーユの妹イザベルと結婚してエルサレム王になっている。

ボニファーチョも若いころから数々の冒険譚があり、彼のトゥルバドゥールによって戯曲化されている。フリードリヒ1世ハインリヒ6世に従い、ホーエンシュタウフェン朝のイタリア攻略に参加した。1193年に兄の跡を継いでモンフェッラート侯となり、1194年からシチリア遠征に参加する。

モンフェッラート家はヨーロッパ中の有力な家系と縁組をしており、フランスフィリップ2世神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世フィリップ兄弟は従兄弟にあたる。当時、ピエモンテオック語圏であり、その宮廷は宮廷詩人騎士道物語等、文化の中心として栄えた。

1201年第4回十字軍の指導者シャンパーニュ伯ティボー3世が亡くなった後、彼自身の軍歴とヨーロッパ王家との縁戚やエルサレム王国東ローマ帝国オリエントの事情に詳しいこと等から、新しい指導者に選ばれた。

同年のクリスマスに従兄弟のローマ王フィリップの元を訪れ、フィリップの義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスと会っており、この時にコンスタンティノープル攻撃が計画されたと推定されている。

第4回十字軍はヴェネツィア共和国の思惑もあり、ハンガリー王国ザラを攻略した後、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。詳細は第4回十字軍参照。

1204年のコンスタンティノープル攻略後、イサキオス2世の未亡人となったハンガリー王ベーラ3世の娘マルギトと結婚し、ラテン帝国皇帝の最有力候補と見なされていたが、強力な皇帝を嫌うヴェネツィアの意向によりフランドル伯ボードゥアンが皇帝に選ばれた。ボニファーチョはボードゥアンと対立し、同年ギリシアでテッサロニキ王国を建国した。しかし1207年9月にブルガリア帝国カロヤンに急襲され、戦死。モンフェッラート侯国を先妻の子であり長男であるグリエルモが、テッサロニキ王国はマルギトの子であり次男であるデメトリオが継いだ。

子女

1170年頃、ヘレナ・デル・ボスコと結婚し以下の子女をもうけた。

1205年、コンスタンティノープルにおいて東ローマ皇后であったマルギトと結婚し1男をもうけた。

先代
コンラート
モンフェッラート侯
1193年 - 1207年
次代
グリエルモ6世
先代
テッサロニキ王
1205年 - 1207年
次代
デメトリオ