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「ロスチスラフ・イヴァノヴィチ」の版間の差分

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ロスチスラフは、所領を失った父と共に亡命生活を送った後、[[スモレンスク公]][[ダヴィド・ロスチスラヴィチ|ダヴィド]]の庇護下に入っていた<ref name="中沢p241">中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) ―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年。p241</ref>。1187年に[[ガーリチ公]][[ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ (ガーリチ公)|ヤロスラフ]]が死亡した後の[[ガーリチ公国]]では、公国の相続権をめぐる争いが勃発した。1189年、ガーリチの貴族らの一派が、ロスチスラフを公位に招聘し<ref name="中沢p241"></ref>、ダヴィドもまたこれを許可した。これは、権力基盤を持たないロスチスラフは、ガーリチの貴族らにとって御し易い人物だったためとする説がある<ref name="中沢p241"></ref>。なお、ロスチスラフの父イヴァンはかつてガーリチ公位にあり、その地位を追われた人物である。
ロスチスラフは、所領を失った父と共に亡命生活を送った後、[[スモレンスク公]][[ダヴィド・ロスチスラヴィチ|ダヴィド]]の庇護下に入っていた<ref name="中沢p241">中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) ―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年。p241</ref>。1187年に[[ガーリチ公]][[ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ (ガーリチ公)|ヤロスラフ]]が死亡した後の[[ガーリチ公国]]では、公国の相続権をめぐる争いが勃発した。1189年、ガーリチの貴族らの一派が、ロスチスラフを公位に招聘し<ref name="中沢p241"></ref>、ダヴィドもまたこれを許可した。これは、権力基盤を持たないロスチスラフは、ガーリチの貴族らにとって御し易い人物だったためとする説がある<ref name="中沢p241"></ref>。なお、ロスチスラフの父イヴァンはかつてガーリチ公位にあり、その地位を追われた人物である。


当時、ガーリチには、ヤロスラフ死後の権力闘争に介入してきたハンガリー王[[ベーラ3世]]の子、アンドラーシュ(後のハンガリー王[[アンドラーシュ2世]])が駐屯していた。ロスチスラフの接近を知ったアンドラーシュは、ガーリチの貴族らに自身への忠誠の誓いを求め、貴族らの中にはこれに従うものが現れた<ref name="中沢p242">中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) ―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年。p242</ref>。ガーリチ近郊で、ロスチスラフを迎えた貴族らはわずかであり、異変を察したロスチスラフの従士([[ドルジーナ]])は撤退を勧めた<ref name="中沢p242"></ref>。しかし、ロスチスラフは自身がガーリチ貴族らを疑い不義をなすことを望まず、父の地で戦いに没することを望み、ハンガリー人ならびにハンガリーに従属したガーリチ貴族らの軍に突撃した<ref name="中沢p242"></ref>。ロスチスラフは捕縛され、戦傷に毒を塗られて死亡した<ref name="中沢p242"></ref>。
当時、ガーリチには、ヤロスラフ死後の権力闘争に介入してきたハンガリー王[[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]の子、アンドラーシュ(後のハンガリー王[[アンドラーシュ2世]])が駐屯していた。ロスチスラフの接近を知ったアンドラーシュは、ガーリチの貴族らに自身への忠誠の誓いを求め、貴族らの中にはこれに従うものが現れた<ref name="中沢p242">中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) ―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年。p242</ref>。ガーリチ近郊で、ロスチスラフを迎えた貴族らはわずかであり、異変を察したロスチスラフの従士([[ドルジーナ]])は撤退を勧めた<ref name="中沢p242"></ref>。しかし、ロスチスラフは自身がガーリチ貴族らを疑い不義をなすことを望まず、父の地で戦いに没することを望み、ハンガリー人ならびにハンガリーに従属したガーリチ貴族らの軍に突撃した<ref name="中沢p242"></ref>。ロスチスラフは捕縛され、戦傷に毒を塗られて死亡した<ref name="中沢p242"></ref>。


子に関する記述は残されていない。
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2021年5月24日 (月) 21:15時点における版

ロスチスラフ・イヴァノヴィチロシア語: Ростислав Иванович、? - 1189年)はイヴァン・ロスチスラヴィチの子である。リューリク朝出身者であるが、所領を持たない公(イズゴイ)であった。

ロスチスラフは、所領を失った父と共に亡命生活を送った後、スモレンスク公ダヴィドの庇護下に入っていた[1]。1187年にガーリチ公ヤロスラフが死亡した後のガーリチ公国では、公国の相続権をめぐる争いが勃発した。1189年、ガーリチの貴族らの一派が、ロスチスラフを公位に招聘し[1]、ダヴィドもまたこれを許可した。これは、権力基盤を持たないロスチスラフは、ガーリチの貴族らにとって御し易い人物だったためとする説がある[1]。なお、ロスチスラフの父イヴァンはかつてガーリチ公位にあり、その地位を追われた人物である。

当時、ガーリチには、ヤロスラフ死後の権力闘争に介入してきたハンガリー王ベーラ3世の子、アンドラーシュ(後のハンガリー王アンドラーシュ2世)が駐屯していた。ロスチスラフの接近を知ったアンドラーシュは、ガーリチの貴族らに自身への忠誠の誓いを求め、貴族らの中にはこれに従うものが現れた[2]。ガーリチ近郊で、ロスチスラフを迎えた貴族らはわずかであり、異変を察したロスチスラフの従士(ドルジーナ)は撤退を勧めた[2]。しかし、ロスチスラフは自身がガーリチ貴族らを疑い不義をなすことを望まず、父の地で戦いに没することを望み、ハンガリー人ならびにハンガリーに従属したガーリチ貴族らの軍に突撃した[2]。ロスチスラフは捕縛され、戦傷に毒を塗られて死亡した[2]

子に関する記述は残されていない。

出典

  1. ^ a b c 中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) ―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年。p241
  2. ^ a b c d 中沢敦夫ら「『イパーチイ年代記』翻訳と注釈(8) ―『キエフ年代記集成』(1181~1195年)」富山大学人文学部紀要第68号、2018年。p242