「コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ」の版間の差分
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1198年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[イムレ (ハンガリー王)|イムレ1世]]と結婚した。2人の間には1男[[ラースロー3世 (ハンガリー王)|ラースロー3世]]が生まれた。イムレは1204年に死去し、ラースローが幼くして王位を継承したが、翌1205年にイムレの弟[[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ2世]]によって廃位された。コンスタンサとラースローは[[オーストリア公]][[レオポルト6世 (オーストリア公)|レオポルト6世]]の許へ逃れたが、間もなくラースローは死去し、コンスタンサはアラゴンへ帰国した。 |
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のち、1209年に[[シチリア王国|シチリア]]王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃となった。フェデリーコは1215年に[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]となった。フェデリーコとの間には1男[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]が生まれた。ハインリヒはコンスタンサの生前に[[ローマ王]]位に就けられていたが、コンスタンサの死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年に[[プッリャ州|アプーリア]]に護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。 |
のち、1209年に[[シチリア王国|シチリア]]王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃となった。フェデリーコは1215年に[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]となった。フェデリーコとの間には1男[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]が生まれた。ハインリヒはコンスタンサの生前に[[ローマ王]]位に就けられていたが、コンスタンサの死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年に[[プッリャ州|アプーリア]]に護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。 |
2021年5月24日 (月) 21:22時点における版
アラゴーニアイ・コンスタンツィア コスタンツァ・ダラゴーナ コンスタンツェ・フォン・アラゴン Aragóniai Constancia Costanza d'Aragona Konstanze von Aragon | |
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ハンガリー王妃 シチリア王妃 神聖ローマ皇后 | |
![]() | |
在位 |
ハンガリー王妃:1198年 - 1204年11月30日 シチリア王妃:1209年8月15日 - 1222年6月23日 神聖ローマ皇后:1220年11月22日 - 1222年6月23日 |
出生 |
1179年 |
死去 |
1222年6月23日![]() |
埋葬 |
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結婚 |
1198年 1209年8月15日 メッシーナ |
配偶者 | ハンガリー王イムレ1世 |
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世 | |
子女 |
ハンガリー王ラースロー3世 ローマ王ハインリヒ7世 |
父親 | アラゴン王アルフォンソ2世 |
母親 | サンチャ・デ・カスティーリャ |
コンスタンサ・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(Constanza de Aragón y Castilla, 1179年 - 1222年6月23日)は、アラゴン王アルフォンソ2世と王妃サンチャ(カスティーリャ王アルフォンソ7世の娘)の長女。ハンガリー語名コンスタンツィア (Aragóniai Constancia)、ドイツ語名コンスタンツェ・フォン・アラゴン (Konstanze von Aragon)、イタリア語名コスタンツァ・ダラゴーナ (Costanza d'Aragona)。
生涯
1198年にハンガリー王イムレ1世と結婚した。2人の間には1男ラースロー3世が生まれた。イムレは1204年に死去し、ラースローが幼くして王位を継承したが、翌1205年にイムレの弟アンドラーシュ2世によって廃位された。コンスタンサとラースローはオーストリア公レオポルト6世の許へ逃れたが、間もなくラースローは死去し、コンスタンサはアラゴンへ帰国した。
のち、1209年にシチリア王フェデリーコ1世と再婚し、その最初の妃となった。フェデリーコは1215年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世となった。フェデリーコとの間には1男ハインリヒが生まれた。ハインリヒはコンスタンサの生前にローマ王位に就けられていたが、コンスタンサの死後の1235年に反乱を起こして廃嫡され、1242年にアプーリアに護送される途中で、山中の崖に投身自殺を遂げた。
コンスタンサが2人の夫それぞれとの間にもうけた息子たちは、いずれも嫡男として生まれて父王の後継者とされながら、終わりを全うすることができなかったことになる。