「ガーリチ公」の版間の差分
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)) - log |
|||
20行目: | 20行目: | ||
*[[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン・ムスチスラヴィチ]] - 在位:1187年 - 1188年<ref name='Войтович Л.3.15'>Войтович Л. [http://litopys.org.ua/dynasty/dyn37.htm 3.15. ВОЛИНСЬКА ГІЛКА МОНОМАХОВИЧІВ. БОЛОХІВСЬКІ КНЯЗІ. КНЯЗІ ОСТРОЗЬКІ ТА ЗАСЛАВСЬКІ] // [http://litopys.org.ua/dynasty/dyn.htm КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль] — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000. </ref> |
*[[ロマン・ムスティスラーヴィチ|ロマン・ムスチスラヴィチ]] - 在位:1187年 - 1188年<ref name='Войтович Л.3.15'>Войтович Л. [http://litopys.org.ua/dynasty/dyn37.htm 3.15. ВОЛИНСЬКА ГІЛКА МОНОМАХОВИЧІВ. БОЛОХІВСЬКІ КНЯЗІ. КНЯЗІ ОСТРОЗЬКІ ТА ЗАСЛАВСЬКІ] // [http://litopys.org.ua/dynasty/dyn.htm КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль] — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000. </ref> |
||
[[アールパード朝]] |
[[アールパード朝]] |
||
*[[アンドラーシュ2世|アンドラーシュ]] - 在位:1188年 |
*[[アンドラーシュ2世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ]] - 在位:1188年 |
||
ガーリチ・ロスチスラヴィチ家 |
ガーリチ・ロスチスラヴィチ家 |
||
*[[ロスチスラフ・イヴァノヴィチ]] - 在位:1188年 - 1189年 |
*[[ロスチスラフ・イヴァノヴィチ]] - 在位:1188年 - 1189年 |
2021年5月24日 (月) 21:24時点における最新版
ガーリチ公(ロシア語: Князь Галицкий、ウクライナ語: Князь галицький、リトアニア語: Haličo kunigaikštis、ポーランド語: Książę halicki)はガーリチ公国の君主の称号である。(「公」はクニャージからの訳出による。)公・公国の名は、その中心都市だったガーリチ(現ウクライナ・ハールィチ)による。
略史
[編集]ルーシ南西部では、987年にフセヴォロド・ウラジミロヴィチがウラジーミル・ヴォルィンスキーに配置され、ヴォルィーニ公国が成立した。その後1085年に、ヴォルィーニ公国から、ロスチスラフ・ウラジミロヴィチの3人の子(ガーリチ・ロスチスラヴィチ家(ru))によって、テレボヴリ公国、ズヴェニゴロド公国、ペレムィシュリ公国が独立、さらに1124年、テレボヴリ公の子、イヴァン・ヴァシリコヴィチがガーリチを分割相続し、ガーリチ公国が成立した。1141年、ウラジーミル・ヴォロダレヴィチの元に、ガーリチ・テレボヴリ・ズヴェニゴロド・ペレムィシュリが継承・統合され、ガーリチに首都が置かれる。これによって、1124年時に比し、より広大な領土を有する公国に改編された。なお、この間、ヴォルィーニ公国は別個の独立した公国として存続している。
しかし、12世紀末のウラジーミル・ヤロスラヴィチの死によって、ガーリチ・ロスチスラヴィチ家は断絶した。翌年、ヴォルィーニ公位にあったロマン・ムスチスラヴィチ(ガーリチ・ロマン家(ru))がガーリチ公国を併せ、ガーリチ・ヴォルィーニ公国が成立した。ただしロマンの死後、ガーリチ領、ヴォルィーニ領内共にいくつかの分領公国が分離することとなる[注 1]。またこの間には、リューリク朝の他系統の公家出身者、さらにはハンガリー王家出身の公も登場した。
モンゴルのルーシ侵攻以降、ダニール・ロマノヴィチが再度ガーリチ・ヴォルィーニ公領を統合する(ガーリチ、ヴォルィーニ公等の複数の公位は存続)が、ジョチ・ウルスに従属しつつの公国存続となった。ガーリチ公位はダニール・ロマノヴィチの子孫によって相続され、1254年からはルーシ王の称号を併称した。その後、14世紀前半に断絶し、ガーリチ・ヴォルィーニ公国領はポーランド王国・リトアニア大公国の係争地となった。ハールィチ・ヴォルィーニ戦争の過程で、ガーリチ公領はポーランド王国に接収され、公位は廃止された。
ガーリチ公の一覧
[編集]ガーリチ・ロスチスラヴィチ家
- イヴァン・ヴァシリコヴィチ - 在位:1124年 - 1141年
- ウラジーミル・ヴォロダレヴィチ - 在位:1141年 - 1144年[1]
- イヴァン・ロスチスラヴィチ - 在位:1144年 / 1146年[1]
- ウラジーミル・ヴォロダレヴィチ - 在位:1144年 - 1153年[1](再任)
- ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ - 在位:1153年 - 1187年[1]
- オレグ・ヤロスラヴィチ - 在位:1187年 - 1188年
- ロマン・ムスチスラヴィチ - 在位:1187年 - 1188年[2]
- アンドラーシュ - 在位:1188年
ガーリチ・ロスチスラヴィチ家
- ロスチスラフ・イヴァノヴィチ - 在位:1188年 - 1189年
- ウラジーミル・ヤロスラヴィチ - 在位:1190年 - 1198年[3] / 1199年[1](:ガーリチ・ロスチスラヴィチ家断絶)
ガーリチ・ロマン家(ru)
- ロマン・ムスチスラヴィチ - 在位:1199年 - 1205年[2][4](:ガーリチ・ヴォルィーニ公国成立。ガーリチ・ヴォルィーニ公)
- ダニール・ロマノヴィチ - 在位:1205年 - 1206年[2](:公位再分割)
チェルニゴフ・オレグ家(ru)
- ウラジーミル・イゴレヴィチ - 在位:1206年 - 1207年[5]
- ロマン・イゴレヴィチ - 在位:1207年 - 1209年[5]
モノマフ家(ru)
- ロスチスラフ・リュリコヴィチ - 在位:1210年
チェルニゴフ・オレグ家
- ウラジーミル・イゴレヴィチ - 在位:1210年 - 1211年[5] (再任)
ガーリチ・ロマン家
- ダニール・ロマノヴィチ - 在位:1211年 - 1212年[2](再任)
モノマフ家
- ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ[注 2] - 在位:1212年 - 1213年
- カールマーン - 在位:1213年 - 1215年
モノマフ家
- ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ - 在位:1215年
アールパード朝
- カールマーン - 在位:1215年 - 1219年 (再任)
モノマフ家
- ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ - 在位:1219年 - 1228年(再任)
アールパード朝
- アンドラーシュ - 在位:1228年 - 1229年
ガーリチ・ロマン家
- ダニール・ロマノヴィチ - 在位:1230年 - 1232年[2](再任)
アールパード朝
- アンドラーシュ - 在位:1231年 - 1233年(再任)
ガーリチ・ロマン家
- ダニール・ロマノヴィチ - 在位:1233年 - 1234年[2](再任)
チェルニゴフ・オレグ家
- ミハイル・フセヴォロドヴィチ - 在位:1235年 - 1238年
- ロスチスラフ・ミハイロヴィチ - 在位:1238年
ガーリチ・ロマン家
- ダニール・ロマノヴィチ - 在位:1238年 - 1264年[2](以下、1254年よりルーシ王併称。)
- レフ・ダニーロヴィチ - 在位:1264年 - 1301年[2]
- ユーリー・リヴォヴィチ - 在位:1301年 - 1308年[2]
- レフ・ユーリエヴィチ - 在位:1308年 - 1323年頃
- アンドレイ・ユーリエヴィチ - 在位:1308年 - 1323年[2]
- (ウラジーミル・リヴォヴィチ[注 3] - 在位:1323年 - 1325年)
- ユーリー・トロイデノヴィチ(ポーランド名ボレスワフ) - 在位:1323年 - 1340年[2]
- ドミトリー・ゲディミノヴィチ(リトアニア名リュバルタス) - 在位:1340年[7] - 1349年
(1349年・ポーランド王カジミェシュ3世がガーリチを獲得。ガーリチ公位廃止。)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e Войтович Л. 3.4. ЯРОСЛАВИЧІ. ПЕРША ГАЛИЦЬКА ДИНАСТІЯ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
- ^ a b c d e f g h i j k Войтович Л. 3.15. ВОЛИНСЬКА ГІЛКА МОНОМАХОВИЧІВ. БОЛОХІВСЬКІ КНЯЗІ. КНЯЗІ ОСТРОЗЬКІ ТА ЗАСЛАВСЬКІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
- ^ Dimnik, Martin: The Dynasty of Chernigov - 1146-1246; Cambridge University Press, 2003, Cambridge.
- ^ Роман Мстиславич Великий // ХРОНОС ВСЕМИРНАЯ ИСТОРИЯ В ИНТЕРНЕТЕ
- ^ a b c Войтович Л. 3.7. ОЛЬГОВИЧІ. ЧЕРНІГІВСЬКІ І СІВЕРСЬКІ КНЯЗІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000.
- ^ Владимир Львович // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона — СПб., 1890—1907.
- ^ Любарт Гедиминович // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона — СПб., 1890—1907.