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「オタカル2世 (ボヘミア王)」の版間の差分

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[[1252年]]、[[オーストリア公]][[レオポルト6世 (オーストリア公)|レオポルト6世]]の娘[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]]と結婚したが、1261年に離婚した。マルガレーテとの間に子は無かった。
[[1252年]]、[[オーストリア公]][[レオポルト6世 (オーストリア公)|レオポルト6世]]の娘[[マルガレーテ・フォン・バーベンベルク|マルガレーテ]]と結婚したが、1261年に離婚した。マルガレーテとの間に子は無かった。


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同年、[[スラヴォニア]]公[[ロスチスラフ・ミハイロヴィチ|ロスチスラフ]](キエフ大公[[ミハイル2世 (キエフ大公)|ミハイル2世]]の子)の娘で、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]の孫娘にあたる[[クンフタ・ウヘルスカー]]と再婚、3人の子を儲けた。
#クンフタ(1265年 - 1321年)
#クンフタ(1265年 - 1321年)
#アネシュカ(1269年 - 1296年) - アグネスとも呼ばれる。[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア大公]][[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ2世]]に嫁ぎ、[[ヨーハン・パリツィーダ]]を産む。
#アネシュカ(1269年 - 1296年) - アグネスとも呼ばれる。[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア大公]][[ルドルフ2世 (オーストリア公)|ルドルフ2世]]に嫁ぎ、[[ヨーハン・パリツィーダ]]を産む。

2021年5月24日 (月) 21:27時点における版

オタカル2世
Přemysl Otakar II.
ボヘミア王
在位 1253年 - 1278年
別号 オーストリア公

出生 1230年?
ボヘミア王国、ムニェステツ・クラーロヴェー
死去 1278年8月26日
オーストリア、デュルンクルート
埋葬 ボヘミア王国聖ヴィート大聖堂
配偶者 マルガレーテ・フォン・バーベンベルク
  クンフタ・ウヘルスカー
子女 クンフタ
アネシュカ
ヴァーツラフ2世
王朝 プシェミスル朝
父親 ヴァーツラフ1世
母親 クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン
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オタカル2世(Přemysl Otakar II., 1230年?[1] - 1278年8月26日[2][3])は、プシェミスル朝ボヘミア王(在位:1253年 - 1278年[4])、オーストリア公(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世ドイツ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。大空位時代にドイツ王に選ばれたカスティーリャアルフォンソ10世は母方の従弟に当たる。ドイツ語名Ottokar、ハンガリー語名Ottokárから、オットカール2世とも呼ばれる。

オーストリアを統治するバーベンベルク家の断絶後、オタカルは彼らの統治下にあったオーストリアシュタイアーマルクを獲得する。東方においてはドイツ騎士団の征服事業を支援し、東プロイセンに勢力を拡大した。1273年神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家ルドルフ1世と対立し、1278年にマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に敗れ、落命した。

オタカルはオーストリアの重要な支配者の一人として挙げられるが、彼の死後に書かれた年代記には偉大さとともに傲慢な人格も記される[5]。それらの年代記は、19世紀の劇作家フランツ・グリルパルツァーのオタカル像にも影響を与えた[6]

生涯

若年期

1247年末、オタカルは下級の貴族に擁立され、父ヴァーツラフ1世に対して反乱を起こす[7]。反乱の背景にはヴァーツラフに不満を抱く貴族の思惑、神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立の影響が存在していたと考えられている[8]。オタカルは一度はヴァーツラフをマイセンに放逐するが、1249年に首都プラハに帰還したヴァーツラフによって反乱軍は打ち破られる。ヴァーツラフによって捕らえられたオタカルは監禁されるが、間もなく叔母アネシュカの仲裁によって親子は和解し、オタカルは釈放される[9]

他方オーストリアでは、1246年にバーベンベルク家出身のオーストリア公フリードリヒ2世が戦死した後、バーベンベルク家の男子継承者が断絶していた[10]。バーベンベルク家の2人の公女マルガレーテとゲルトルートにも公位の継承権が認められており、多くの公位請求者が2人に求婚した[11]1246年にオタカルの兄ヴラディスラフはゲルトルートと結婚するが、翌1247年にヴラディスラフは没する。領内の安定を求めるオーストリアの貴族はヴラディスラフの弟であるオタカルをオーストリアに招き[12]1252年2月にオタカルは20歳以上年上のマルガレーテと結婚する。

オーストリア支配

ゲルトルートはハンガリー王族であるルテニア侯ローマン・フォン・ハリチと再婚し、オタカルはゲルトルートを通してオーストリアに干渉するハンガリーと交戦した。1254年に教皇インノケンティウス4世の仲裁によってオーフェン(ブダ)の和約でボヘミア、ハンガリーは和約を結び、ボヘミアはトラウンガウピッテン、ハンガリーはシュタイアーマルクを獲得した[12]。戦後オタカルは領内にラント平和令を発して領内の安定を図るが、次第に貴族に干渉し、教会、都市を優遇するようになっていく[12]。13世紀末のチェコでは君主が自由に課税できる特別所領(直轄領)と、領邦集会の同意を経たうえで課税できる一般所領の区別がされ、特別所領に含まれる都市は重要な収入源となる[13]。歴史研究家のフィアラはオタカルの治世に建設されたと思われる28の都市を列挙し、他のプシェミスル家の君主の時代よりも都市の建設が盛んに行われたことを指摘している[14]。ウィーンを領邦司教区に昇格させる、バーベンベルク時代から続けられていた運動にオタカルも一時期は駆り立てられたが、やがて昇格を断念する[15]

また、オタカルは1250年代にドイツ騎士団によるザーレラント進出を支援する[16]1255年に騎士団はプロイセン人がトゥワングステと呼んでいた土地に城砦を建て、騎士団はオタカルに敬意を表して「王の要塞」を意味するケーニヒスベルクカリーニングラード)と城砦に命名した[16]。ドイツから希望者を募ってチェコ国内の開拓に従事させる東方殖民はオタカルの時代に一つのピークを迎えるが[17]、チェコの住民はドイツ人の入植に反感を抱いていた[2]。殖民事業による耕作地の拡大、鉱山の開発によって増した国力を背景として、オタカルはドイツのライン川右岸地域における国王代理に任命される[18]

1259年、オタカルはザルツブルク大司教の地位を巡る争いに介入し、ハンガリーの支援を受けていたゼッカウ司教ウルリヒを破る。ザルツブルクでの紛争のさなかにシュタイアーマルクの貴族はハンガリーの支配から逃れるためにオタカルを頼り、彼らの要請に応えたオタカルは軍隊を派遣してシュタイアーマルクの蜂起を援護する[19]。1260年のクレッセンブルンの戦いでオタカルはハンガリー軍に勝利し、翌1261年のウィーンの和議でシュタイアーマルクはオタカルの支配下に入る。

ルドルフ1世との戦い

1253年から1271年までのオタカル2世の領土

大空位時代を迎えた神聖ローマ帝国において、オタカルはドイツ王の選挙に積極的に関与し、中心的な役割を果たした[20]。まもなく七選帝侯によってドイツ王が選出される体制が確立されるが、選帝侯の中にボヘミア王が含まれていたのはオタカルの活躍に帰する点が大きいと考えられている[20]。1262年には皇帝候補の一人コーンウォール伯リチャードにバーベンベルク家の所領を授封するが、これは当時の法慣例から外れた行為だった[19]

オタカルは懐妊が期待できないマルガレーテとの結婚を解消し、ハンガリーの王女クニグンデ(クンフタ)と再婚した[19]。オーストリアの貴族は自己の権利の強化を求め、またボヘミア人やモラヴィア人がオーストリア、特にシュタイアーマルクの要職を占めている状況に不満を抱いていた[19]1265年にオタカルはオーストリアの混乱期に無許可で建てられた城壁を破壊する。オタカルはオーストリアの貴族がズデーテン地方の貴族と同盟していると見なして彼らに攻撃を加え、1268年に多数のシュタイアーマルクの貴族を逮捕した[15]1272年にオタカルはフリウリ総督に就任し、ボヘミア王国はズデーテンからアドリア海に広がる支配権を有するようになる[21]

1273年フランクフルトでドイツ王選挙が開かれるが、会議の場にオタカルの姿は無かった[22]。野心的なオタカルを忌避する他の諸侯はハプスブルク家ルドルフ1世をドイツ王に選ぶが、オタカルはルドルフの選出に強く反対し、ルドルフ1世を「貧乏伯」と小ばかにした[21][22]

ルドルフ1世はオタカルの領土拡大を不法なものだと非難し、ライン宮中伯ルートヴィヒは、オタカルに世襲地であるボヘミア、モラヴィアの受領、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの帝国への返還を求める訴えを起こした[23]ニュルンベルクでの帝国裁判への出廷の拒否、領土の授封の申請を怠ったことを理由として、1274年11月にオタカルは帝国追放処分を下される[21]。さらに1276年6月には重追放処分が下され、これまでオタカルを支持していたオーストリアの貴族もルドルフの側に傾き始める[21]。また、教皇庁の態度、托鉢修道士による宣伝は民衆の感情を反オタカルの側に揺り動かしたが、オタカルは反対派の行動に厳罰をもって対抗する[21]

ドイツ国王軍と同盟軍がオーストリアに進軍すると、オーストリアの貴族と都市の大部分は降伏し、オタカルは不戦降伏を決意する[24]。オタカルはルドルフ1世にオーストリアとエーガーの放棄を約束し、ボヘミアとモラヴィアの授封を承認した[2]。しかし、依然多くの支持者を擁するオタカルは領地の引渡しを拒否し、ニーダーバイエルンのハインリヒらの貴族、一部のウィーン市民はルドルフ1世に反抗した[2]。また、オタカルの降伏とともにプシェミスル家とハプスブルク家の婚姻が計画されていたが、帝国追放令が解除された後に婚姻の計画はオタカルによって破棄される[25]。オタカルとルドルフは双方とも軍隊を召集し、オタカルの元にはボヘミア、モラヴィアだけでなくブランデンブルクシレジアテューリンゲンポーランドからの軍勢も加わった[2]

1278年8月26日にオーストリア東部でボヘミア軍とドイツ軍が交戦するが、ルドルフ1世の配置した伏兵によってボヘミア軍は敗北する(マルヒフェルトの戦い)。敗走中、オタカルはかつて処刑したマーレンベルク家の郎党と思われる人間に捕らえられ、撲殺された[26]。戦後、オタカルの娘アネシュカ(アグネス)とルドルフ1世の子ルドルフ、息子ヴァーツラフとルドルフ1世の娘グータ(ユッタ)の結婚が取り決められた[6]

子女

1252年オーストリア公レオポルト6世の娘マルガレーテと結婚したが、1261年に離婚した。マルガレーテとの間に子は無かった。

同年、スラヴォニアロスチスラフ(キエフ大公ミハイル2世の子)の娘で、ハンガリーベーラ4世の孫娘にあたるクンフタ・ウヘルスカーと再婚、3人の子を儲けた。

  1. クンフタ(1265年 - 1321年)
  2. アネシュカ(1269年 - 1296年) - アグネスとも呼ばれる。ハプスブルク家オーストリア大公ルドルフ2世に嫁ぎ、ヨーハン・パリツィーダを産む。
  3. ヴァーツラフ(1271年 - 1305年)

脚注

  1. ^ 稲野強「オタカル2世」『東欧を知る事典』新訂増補、62頁
  2. ^ a b c d e ツェルナー『オーストリア史』、153頁
  3. ^ 薩摩『物語 チェコの歴史』、50頁
  4. ^ 上田篤・田端修『路地研究 もうひとつの都市の広場』鹿島出版会、2013年、172頁。ISBN 978-4-306-09423-9 
  5. ^ ツェルナー『オーストリア史』、154-155頁
  6. ^ a b ツェルナー『オーストリア史』、154頁
  7. ^ 藤井『中世チェコ国家の誕生』、165-166頁
  8. ^ 薩摩『物語 チェコの歴史』、45頁
  9. ^ 薩摩『物語 チェコの歴史』、46頁
  10. ^ ツェルナー『オーストリア史』、108,148頁
  11. ^ ツェルナー『オーストリア史』、148-149頁
  12. ^ a b c ツェルナー『オーストリア史』、149頁
  13. ^ 藤井『中世チェコ国家の誕生』、209,289頁
  14. ^ 藤井『中世チェコ国家の誕生』、165-166頁
  15. ^ a b ツェルナー『オーストリア史』、151頁
  16. ^ a b 山内進『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』(講談社選書メチエ, 講談社, 1997年9月)、169頁
  17. ^ 薩摩『物語 チェコの歴史』、48-49頁
  18. ^ 薩摩『物語 チェコの歴史』、49頁
  19. ^ a b c d ツェルナー『オーストリア史』、150頁
  20. ^ a b 薩摩『物語 チェコの歴史』、48頁
  21. ^ a b c d e ツェルナー『オーストリア史』、152頁
  22. ^ a b ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、39頁
  23. ^ 池谷文夫「ドイツ王国の国制変化」『ドイツ史 1 先史〜1648年』収録(木村靖二、成瀬治、山田欣吾編, 世界歴史大系, 山川出版社, 1997年7月)、294頁
  24. ^ ツェルナー『オーストリア史』、152-153頁
  25. ^ ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』、43頁
  26. ^ ツェルナー『オーストリア史』、153-154頁

参考文献

  • 稲野強「オタカル2世」『東欧を知る事典』新訂増補収録(平凡社, 2001年3月)
  • 薩摩秀登『物語 チェコの歴史』(中公新書, 中央公論新社, 2006年3月)
  • 藤井真生『中世チェコ国家の誕生』(静岡大学人文社会科学部研究叢書, 昭和堂, 2014年2月)
  • エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』(リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2000年5月)
  • アンドリュー・ウィートクロフツ『ハプスブルク家の皇帝たち』(瀬原義生訳, 文理閣, 2009年7月)
先代
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ボヘミア王
1253年 - 1278年
次代
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ツェーリンゲン家
オーストリア公
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次代
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