「ロマン・ダニーロヴィチ」の版間の差分
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1252年、父ダニールとハンガリー王[[ベーラ4世 (ハンガリー王)|ベーラ4世]]との条約の下で、[[オーストリア公]][[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]の姪ゲルトルート[[:ru:Гертруда Австрийская|(ru)]]と結婚した。ゲルトルートはオーストリア公位の相続権を有しており、この結婚は、ロマンに[[オーストリア公国]]、[[シュタイアーマルク公国]]の継承権を付与するものであった。一方、1251年末より[[ボヘミア王国]]の王子[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル]]がオーストリアに軍勢を率いて駐留し、継承権を主張しており、最終的にはオーストリア公位の継承権はオタカルにあると決定された。ロマンは[[ウィーン]]近くのノイブルクを居城としていたが<ref name="ЭСБЕРоман">[[:ru:s:ЭСБЕ/Роман, русские князья|Роман, русские князья]] // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона([[ブロックハウス・エフロン百科事典]]) : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.</ref>、ノイブルクにオタカルの軍勢に包囲されたこと、1253年末にオーストリアを脱し、[[ナヴァフルダク|ノヴォグルドク]]へ至ったことが知られている<ref name="ЭСБЕРоман"></ref>。 |
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1255年、父ダニールが[[リトアニア大公国]]へ遠征し、リトアニア領の城を占領したのち、[[リトアニア大公]][[ミンダウガス]]の息子[[ヴァイシュヴィルガス]]の有していた諸都市の領有権を得た。1258年には父と共に[[ヤトヴャグ族]]に対する遠征を行った<ref name="ЭСБЕРоман"></ref>。 |
1255年、父ダニールが[[リトアニア大公国]]へ遠征し、リトアニア領の城を占領したのち、[[リトアニア大公]][[ミンダウガス]]の息子[[ヴァイシュヴィルガス]]の有していた諸都市の領有権を得た。1258年には父と共に[[ヤトヴャグ族]]に対する遠征を行った<ref name="ЭСБЕРоман"></ref>。 |
2021年5月24日 (月) 21:33時点における最新版
ロマン・ダニーロヴィチ Роман Данилович | |
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ルーツク公 ノヴォグルドク公 | |
在位 |
ルーツク公:? - 1254年 ノヴォグルドク公:1254年 - 1258年 |
出生 |
1230年頃 |
死去 |
1258年あるいは1260年 |
配偶者 | ゲルトルート・フォン・エスターライヒ |
エレナ・グレボヴナ | |
子女 |
マリヤ ミハイル |
家名 | リューリク家 |
父親 | ガーリチ・ヴォルィーニ公ダニール |
母親 | アンナ・ムスチスラヴナ |
ロマン・ダニーロヴィチ(ロシア語: Роман Данилович、1230年頃 - 1258年[1]あるいは1260年[2])はガーリチ・ヴォルィーニ公ダニールの四男である。ルーツク公(在位:? - 1254年)、ノヴォグルドク公(在位:1254年 - 1258年)。
生涯
[編集]1252年、父ダニールとハンガリー王ベーラ4世との条約の下で、オーストリア公フリードリヒ2世の姪ゲルトルート(ru)と結婚した。ゲルトルートはオーストリア公位の相続権を有しており、この結婚は、ロマンにオーストリア公国、シュタイアーマルク公国の継承権を付与するものであった。一方、1251年末よりボヘミア王国の王子オタカルがオーストリアに軍勢を率いて駐留し、継承権を主張しており、最終的にはオーストリア公位の継承権はオタカルにあると決定された。ロマンはウィーン近くのノイブルクを居城としていたが[3]、ノイブルクにオタカルの軍勢に包囲されたこと、1253年末にオーストリアを脱し、ノヴォグルドクへ至ったことが知られている[3]。
1255年、父ダニールがリトアニア大公国へ遠征し、リトアニア領の城を占領したのち、リトアニア大公ミンダウガスの息子ヴァイシュヴィルガスの有していた諸都市の領有権を得た。1258年には父と共にヤトヴャグ族に対する遠征を行った[3]。
1258年にヴァイシュヴィルガス、タウトヴィラスの共謀によって殺害された、とする史料がある。
妻子
[編集]妻はオーストリア公女のゲルトルートと、ヴォルコヴィスク公女エレナ・グレボヴナ。エレナとの間の子ミハイルは、ドルツキー家(ru)の祖であるとする説がある。また、13世紀半ばのスロニム公ヴァシリコ(ru)を、ロマンの子とする説がある[4]。娘のマリヤは1270年にスラヴォニア総督(ru)のヨアキム(en)と結婚した。
出典
[編集]- ^ Михайло Грушевський. ХРОНОЛОГІЯ ПОДІЙ ГАЛИЦЬКО-ВОЛИНСЬКОГО ЛІТОПИСУ
- ^ Константин Рыжов.Все монархи мира. Россия. 600 кратких жизнеописаний Москва, 1999.
- ^ a b c Роман, русские князья // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона(ブロックハウス・エフロン百科事典) : в 86 т. (82 т. и 4 доп.). — СПб., 1890—1907.
- ^ Коган В.М., Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — С. 297—298.
参考文献
[編集]- Галицко-Волынская летопись. Под ред. Н. Ф. Котляра — СПб: «Алетейя», 2005.
- Котляр Н. Ф. Даниил, князь Галицкий — СПб: «Алетейя»; Киев: «Птах», 2008.