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「カルロ・マルテッロ・ダンジョ」の版間の差分

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1281年に[[ローマ王]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の五女{{仮リンク|クレメンツァ・ダスブルゴ|label=クレメンツィア(クレメンツァ)|en|Clemence of Austria}}と結婚し、1男2女を儲けた(イタリア語名/ハンガリー語名の順に記す)。
1281年に[[ローマ王]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の五女{{仮リンク|クレメンツァ・ダスブルゴ|label=クレメンツィア(クレメンツァ)|en|Clemence of Austria}}と結婚し、1男2女を儲けた(イタリア語名/ハンガリー語名の順に記す)。
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1290年に叔父のラースロー4世が暗殺されると、[[アンドラーシュ3世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ3世]]の即位を認めず、自身の王位継承を主張して名目上のハンガリー王を称した。カルロ・マルテッロの王位は[[十字軍]]の派兵を条件にして、[[教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]によって承認された。しかし1295年、アンドラーシュ3世より先に23歳で早世した。
1290年に叔父のラースロー4世が暗殺されると、[[アンドラーシュ3世 (ハンガリー王)|アンドラーシュ3世]]の即位を認めず、自身の王位継承を主張して名目上のハンガリー王を称した。カルロ・マルテッロの王位は[[十字軍]]の派兵を条件にして、[[教皇]][[ニコラウス4世 (ローマ教皇)|ニコラウス4世]]によって承認された。しかし1295年、アンドラーシュ3世より先に23歳で早世した。


1301年にアンドラーシュ3世が死去して[[アールパード朝]]が断絶した後、ハンガリー王位はアールパード家の女系子孫たちによって争われ、最終的に息子カルロ・ロベルトが正式な戴冠を果たした([[カーロイ1世]])。
1301年にアンドラーシュ3世が死去して[[アールパード朝]]が断絶した後、ハンガリー王位はアールパード家の女系子孫たちによって争われ、最終的に息子カルロ・ロベルトが正式な戴冠を果たした([[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]])。


[[ファイル:Hrobka KlemencieHabs KarelMartel-neapol.jpg|thumb|250px|left|カルロ・マルテッロとクレメンツァの墓]]
[[ファイル:Hrobka KlemencieHabs KarelMartel-neapol.jpg|thumb|250px|left|カルロ・マルテッロとクレメンツァの墓]]

2021年5月24日 (月) 21:46時点における版

カルロ・マルテッロ
Carlo Martello
アンジョ=シチリア家
カルロ・マルテッロ・ダンジョ(14世紀)

称号 ハンガリー王(名目上)
クロアチア王(名目上)
出生 (1271-09-08) 1271年9月8日
シチリア王国ナポリ
死去 (1295-08-12) 1295年8月12日(23歳没)
ナポリ王国ナポリ
埋葬 ナポリ王国ナポリナポリ大聖堂
配偶者 クレメンツァ・ダスブルゴ
子女
父親 カルロ2世
母親 マリア
宗教 キリスト教カトリック教会
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カルロ・マルテッロ・ダンジョイタリア語: Carlo Martello d'Angiò, 1271年9月8日 - 1295年8月12日)は、ハンガリー王位請求者ハンガリー語名でアニョウ・マルテル・カーロイAnjou Martell Károly)、フランス語名でシャルル・マルテル・ダンジューCharles Martel d'Anjou)とも呼ばれる。アンジョ=シチリア家の分枝の一つでハンガリー王家となったアンジュー=ハンガリー家の祖である。

生涯

1271年、ナポリ王カルロ2世の長男として生まれる。母はハンガリー王女マーリアイシュトヴァーン5世の次女)。また、父方の叔母イザベッラ(エルジェーベト)は、母マリアの弟であるラースロー4世の妃であった。

1281年にローマ王ルドルフ1世の五女クレメンツィア(クレメンツァ)英語版と結婚し、1男2女を儲けた(イタリア語名/ハンガリー語名の順に記す)。

1290年に叔父のラースロー4世が暗殺されると、アンドラーシュ3世の即位を認めず、自身の王位継承を主張して名目上のハンガリー王を称した。カルロ・マルテッロの王位は十字軍の派兵を条件にして、教皇ニコラウス4世によって承認された。しかし1295年、アンドラーシュ3世より先に23歳で早世した。

1301年にアンドラーシュ3世が死去してアールパード朝が断絶した後、ハンガリー王位はアールパード家の女系子孫たちによって争われ、最終的に息子カルロ・ロベルトが正式な戴冠を果たした(カーロイ1世)。

カルロ・マルテッロとクレメンツァの墓