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==歴史==
==歴史==
[[1290年]]、ハンガリー王国のもとで都市として認められた。交易路の要衝に位置したため、中世より商工業が発展した。[[1369年]]、[[ラヨシュ1世]]によりヨーロッパ最古の市章が制定された。現在のコシツェ市章は、この当時の市章にいくつかの変更を加えたものである。<ref>{{Cite web|title=The Arms of Košice City / 1369 - The first armorial warrant :: Official website of Košice|url=https://www.kosice.sk/city/the-arms-of-kosice-city-1369-the-first-armorial-warrant|website=www.kosice.sk|accessdate=2020-10-24}}</ref>
[[1290年]]、ハンガリー王国のもとで都市として認められた。交易路の要衝に位置したため、中世より商工業が発展した。[[1369年]]、[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]によりヨーロッパ最古の市章が制定された。現在のコシツェ市章は、この当時の市章にいくつかの変更を加えたものである。<ref>{{Cite web|title=The Arms of Košice City / 1369 - The first armorial warrant :: Official website of Košice|url=https://www.kosice.sk/city/the-arms-of-kosice-city-1369-the-first-armorial-warrant|website=www.kosice.sk|accessdate=2020-10-24}}</ref>


第一次世界大戦後、1918年には[[トリアノン条約]]によって[[チェコスロバキア]]領となるが、[[1938年]]11月の[[ウィーン裁定|第一次ウィーン裁定]]によりハンガリーに編入された<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/コシツェ-64709 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-20 }}</ref>。第二次世界大戦末期にはコシツェ臨時政府が建てられ、一時的にチェコスロバキア第三共和国の最初の首都となり<ref>{{Cite web|title=History of the City :: Official website of Košice|url=https://www.kosice.sk/city/history-of-the-city|website=www.kosice.sk|accessdate=2020-10-24}}</ref>、第二次世界大戦後における社会主義政権の方針を定めた「コシツェ政府綱領」が出された。
第一次世界大戦後、1918年には[[トリアノン条約]]によって[[チェコスロバキア]]領となるが、[[1938年]]11月の[[ウィーン裁定|第一次ウィーン裁定]]によりハンガリーに編入された<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/コシツェ-64709 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-05-20 }}</ref>。第二次世界大戦末期にはコシツェ臨時政府が建てられ、一時的にチェコスロバキア第三共和国の最初の首都となり<ref>{{Cite web|title=History of the City :: Official website of Košice|url=https://www.kosice.sk/city/history-of-the-city|website=www.kosice.sk|accessdate=2020-10-24}}</ref>、第二次世界大戦後における社会主義政権の方針を定めた「コシツェ政府綱領」が出された。

2021年5月24日 (月) 21:51時点における版

コシツェ
Košice
コシツェの市旗 コシツェの市章
市旗 市章
位置
コシツェの位置の位置図
コシツェの位置
地図
座標 : 北緯48度42分58秒 東経21度15分41秒 / 北緯48.71611度 東経21.26139度 / 48.71611; 21.26139
歴史
最初に文献に
登場した年
1230年
行政
スロバキアの旗 スロバキア
 県 コシツェ県の旗 コシツェ県
 郡 Košice I, Košice II,
Košice III, Košice IV
 市 コシツェ
市長 Richard Raši
地理
面積  
  市域 242.768 km2
標高 206 m
人口
人口 (2011年12月31日現在)
  市域 240,688人
    人口密度   991人/km2
その他
等時帯 CET (UTC+1)
夏時間 CEST (UTC+2)
郵便番号 040 00
市外局番 +421-55
ナンバープレート KE
公式ウェブサイト : www.kosice.sk
国立劇場と街の風景

コシツェKošice, ハンガリー語Kassa, ドイツ語Kaschau, ラテン語:Cassovia)はスロバキア第2の都市。2013年にはフランスマルセイユとともに欧州文化首都であった。

地勢・産業

スロバキア東部に位置する代表的な工業都市。ホルナート川沿いに位置する。ハンガリー国境まで約20キロ、ウクライナの国境まで80キロ程度。近隣の都市としては、約30キロ北にプレショフ、75キロ南西にハンガリーのミシュコルツ、80キロ東にウクライナのウジホロドが位置している。

歴史

1290年、ハンガリー王国のもとで都市として認められた。交易路の要衝に位置したため、中世より商工業が発展した。1369年ラヨシュ1世によりヨーロッパ最古の市章が制定された。現在のコシツェ市章は、この当時の市章にいくつかの変更を加えたものである。[1]

第一次世界大戦後、1918年にはトリアノン条約によってチェコスロバキア領となるが、1938年11月の第一次ウィーン裁定によりハンガリーに編入された[2]。第二次世界大戦末期にはコシツェ臨時政府が建てられ、一時的にチェコスロバキア第三共和国の最初の首都となり[3]、第二次世界大戦後における社会主義政権の方針を定めた「コシツェ政府綱領」が出された。

1993年のチェコ・スロバキア分離にともない、スロバキア領となり、現在に至る。

統計

コシツェは2006年12月の調査で235,596人の人口がある。2001年調査によれば、人口の89.1%がスロバキア人、3.8%がハンガリー人、2.1%がロマ人、1.2%がチェコ人、0.5%がルシン人、0.5%がウクライナ人である。信仰は、58.3%がカトリック教会、19.4%が無宗教、7.%が東方典礼カトリック教会、4.1%がルーテル教会である[4]

コシツェ出身の著名人

姉妹都市

参照

  1. ^ The Arms of Košice City / 1369 - The first armorial warrant :: Official website of Košice”. www.kosice.sk. 2020年10月24日閲覧。
  2. ^ デジタル大辞泉の解説”. コトバンク. 2018年5月20日閲覧。
  3. ^ History of the City :: Official website of Košice”. www.kosice.sk. 2020年10月24日閲覧。
  4. ^ Municipal Statistics”. Statistical Office of the Slovak republic. 2008年2月17日閲覧。

外部リンク