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「エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ」の版間の差分

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エルジュビェタは[[ポーランド王国|ポーランド]]の王家である[[ピャスト家]]の一族として生まれた。父ヴワディスワフ1世は分裂したポーランドを再統一し、1320年1月20日にポーランド王として戴冠した。同年7月6日、エルジュビェタはハンガリー王[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]と結婚した。カーロイ1世にとっては3番目の妻だった。
エルジュビェタは[[ポーランド王国|ポーランド]]の王家である[[ピャスト家]]の一族として生まれた。父ヴワディスワフ1世は分裂したポーランドを再統一し、1320年1月20日にポーランド王として戴冠した。同年7月6日、エルジュビェタはハンガリー王[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]と結婚した。カーロイ1世にとっては3番目の妻だった。


1342年にカーロイ1世が死去すると、エルジュビェタとの間の息子[[ラヨシュ1世]]が王位を継承した。一方、父ヴワディスワフ1世が1333年に死去した後、エルジュビェタの弟[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]がポーランド王位を継承していたが、カジミェシュ3世が1370年に死去した時、残されたのは娘が2人と外孫が1人だけで、息子はなかった。他にピャスト家支流の諸侯が[[シロンスク公国群|シレジア]]と[[マゾフシェ県|マゾフシェ]]にいたが、エルジュビェタの権限により、ラヨシュ1世がポーランド王位も継承した(ポーランド王としてはルドヴィク1世)。エルジュビェタはその死まで、ポーランドにおける実質的な統治権を維持したといわれる。ラヨシュ1世の即位によりポーランドの[[ピャスト朝]]は終焉し、[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]による統治が始まったが、ラヨシュ1世の娘[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]の死によってその血統は断絶する。
1342年にカーロイ1世が死去すると、エルジュビェタとの間の息子[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]が王位を継承した。一方、父ヴワディスワフ1世が1333年に死去した後、エルジュビェタの弟[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]がポーランド王位を継承していたが、カジミェシュ3世が1370年に死去した時、残されたのは娘が2人と外孫が1人だけで、息子はなかった。他にピャスト家支流の諸侯が[[シロンスク公国群|シレジア]]と[[マゾフシェ県|マゾフシェ]]にいたが、エルジュビェタの権限により、ラヨシュ1世がポーランド王位も継承した(ポーランド王としてはルドヴィク1世)。エルジュビェタはその死まで、ポーランドにおける実質的な統治権を維持したといわれる。ラヨシュ1世の即位によりポーランドの[[ピャスト朝]]は終焉し、[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]による統治が始まったが、ラヨシュ1世の娘[[ヤドヴィガ (ポーランド女王)|ヤドヴィガ]]の死によってその血統は断絶する。


== 子女 ==
== 子女 ==
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* カーロイ([[1321年]])
* カーロイ([[1321年]])
* ラースロー([[1324年]]11月1日 - [[1329年]]2月24日)
* ラースロー([[1324年]]11月1日 - [[1329年]]2月24日)
* [[ラヨシュ1世]]([[1326年]] - [[1382年]]) - ハンガリー王およびポーランド王
* [[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]([[1326年]] - [[1382年]]) - ハンガリー王およびポーランド王
* [[アンドレア・ドゥンゲリア|アンドラーシュ]]([[1327年]] - [[1345年]]) - カラブリア公
* [[アンドレア・ドゥンゲリア|アンドラーシュ]]([[1327年]] - [[1345年]]) - カラブリア公
* イシュトヴァーン([[1332年]] - [[1354年]]) - スラヴォニア公
* イシュトヴァーン([[1332年]] - [[1354年]]) - スラヴォニア公

2021年5月24日 (月) 21:53時点における版

エルジュビェタ / エルジェーベト
Elżbieta / Erzsébet
ハンガリー王妃
在位 1320年 - 1342年

出生 1305年
死去 1380年12月29日
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダ
結婚 1320年7月6日
配偶者 ハンガリーカーロイ1世
子女 一覧参照
家名 クヤヴィ・ピャスト家
父親 ポーランドヴワディスワフ1世ウォキェテク
母親 ヤドヴィガ・ボレスワヴヴナ
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エルジュビェタ・ウォキェトクヴナポーランド語:Elżbieta Łokietkówna, 1305年 - 1380年12月29日)は、ハンガリー王カーロイ1世の3番目の妃。ポーランド王ヴワディスワフ1世ウォキェテクの次女で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘ヤドヴィガハンガリー語名はエルジェーベト(Łokietek Erzsébet)。

生涯

エルジュビェタはポーランドの王家であるピャスト家の一族として生まれた。父ヴワディスワフ1世は分裂したポーランドを再統一し、1320年1月20日にポーランド王として戴冠した。同年7月6日、エルジュビェタはハンガリー王カーロイ1世と結婚した。カーロイ1世にとっては3番目の妻だった。

1342年にカーロイ1世が死去すると、エルジュビェタとの間の息子ラヨシュ1世が王位を継承した。一方、父ヴワディスワフ1世が1333年に死去した後、エルジュビェタの弟カジミェシュ3世がポーランド王位を継承していたが、カジミェシュ3世が1370年に死去した時、残されたのは娘が2人と外孫が1人だけで、息子はなかった。他にピャスト家支流の諸侯がシレジアマゾフシェにいたが、エルジュビェタの権限により、ラヨシュ1世がポーランド王位も継承した(ポーランド王としてはルドヴィク1世)。エルジュビェタはその死まで、ポーランドにおける実質的な統治権を維持したといわれる。ラヨシュ1世の即位によりポーランドのピャスト朝は終焉し、アンジュー家による統治が始まったが、ラヨシュ1世の娘ヤドヴィガの死によってその血統は断絶する。

子女

エルジュビェタとカーロイ1世には5人の男子がいた。

ハンガリー王妃の水

ハンガリー王妃時代に、後にハンガリー水またはハンガリー王妃の水として知られる薬を献上され、愛用したという話が知られる。ハンガリー水は、ローズマリー酒精と共に蒸留した薬用酒であるが、これはアルコールベースの香水の原型のひとつと考えられている。エルジュビェタはこの薬の効果で病が癒えて若返り、ポーランド王に求婚されたといい、これがハンガリー水の起源であると後世に喧伝された。しかし、当時のポーランド王は彼女の息子であるなど、史実との整合性はなく、ドイツ技術学の創始者ヨハン・ベックマン英語版(1739 - 1811)は、話の内容から見て、後世に商品の箔付けのために作られたフィクションである可能性が高いと指摘している[1]。ハンガリー水の起源に、エルジュビェタが何らかの形で関係しているかは不明であるが、蒸留技術の歴史などをかんがみると、その可能性はかなり低い[1]

脚注

  1. ^ a b ヨハン・ベックマン 著 『西洋事物起源(二)』 特許庁内技術史研究会 訳、岩波書店、1999年