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「カジミェシュ4世 (スウプスク公)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
カジミェシュ4世は母方の祖父であるポーランド王カジミェシュ3世にとっては唯一の孫息子で、非常に親しかった。1370年に亡くなる際、カジミェシュ3世は自分の王国を孫のスウプスク公子と甥のハンガリー王[[ラヨシュ1世]]の間で分割相続させると遺言し、孫には[[ドブジン]]、[[ブィドゴシュチュ]]、[[クルシュヴィツァ]]、[[ズウォトゥフ]]、[[ヴァウチュ]]など[[クヤヴィ・ピャスト家|クヤヴィ公家]]の世襲領地を与えると決めた。しかしポーランドの貴族や高位聖職者たちはかつての[[ボレスワフ3世の遺言状|ポーランド王国の分裂状態]]が再び起きるのを恐れ、国王の遺言を無視して王国領のほぼ全域と王冠をハンガリー王に差し出した。結局、スウプスク公子カジミェシュには封土という形でドブジンが一時的に与えられたのみだった。
カジミェシュ4世は母方の祖父であるポーランド王カジミェシュ3世にとっては唯一の孫息子で、非常に親しかった。1370年に亡くなる際、カジミェシュ3世は自分の王国を孫のスウプスク公子と甥のハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]の間で分割相続させると遺言し、孫には[[ドブジン]]、[[ブィドゴシュチュ]]、[[クルシュヴィツァ]]、[[ズウォトゥフ]]、[[ヴァウチュ]]など[[クヤヴィ・ピャスト家|クヤヴィ公家]]の世襲領地を与えると決めた。しかしポーランドの貴族や高位聖職者たちはかつての[[ボレスワフ3世の遺言状|ポーランド王国の分裂状態]]が再び起きるのを恐れ、国王の遺言を無視して王国領のほぼ全域と王冠をハンガリー王に差し出した。結局、スウプスク公子カジミェシュには封土という形でドブジンが一時的に与えられたのみだった。


1360年、カジミェシュ4世は[[リトアニア]]の[[アルギルダス]]大公の娘ケンナと結婚した。カジミェシュの母方の祖母[[アルドナ・オナ・ゲディミナイテ|アルドナ]]はアルギルダスの姉妹だったので、ケンナとカジミェシュは親族関係にあった。ケンナは[[東方正教会]]の信徒として育っており、結婚に際して[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗し、新たに「ヨハンナ」と名乗った。ケンナは子供を産まないうちに、1368年4月に亡くなった。翌1369年の4月、カジミェシュは[[マゾフシェ公]][[シェモヴィト3世]]の娘マウゴジャータと再婚した。カジミェシュはこの結婚でも子供をもうけることが出来ず、1377年に亡くなると、腹違いの弟ヴァルチスワフ7世(デンマーク王[[エリク・ア・ポンメルン|エリク]]の父親)がスウプスク公国を継承した。未亡人となったマウゴジャータは[[シロンスク]]のルビン公[[ヘンリク7世・ズ・ブリズノン|ヘンリク7世]]と再婚した。
1360年、カジミェシュ4世は[[リトアニア]]の[[アルギルダス]]大公の娘ケンナと結婚した。カジミェシュの母方の祖母[[アルドナ・オナ・ゲディミナイテ|アルドナ]]はアルギルダスの姉妹だったので、ケンナとカジミェシュは親族関係にあった。ケンナは[[東方正教会]]の信徒として育っており、結婚に際して[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗し、新たに「ヨハンナ」と名乗った。ケンナは子供を産まないうちに、1368年4月に亡くなった。翌1369年の4月、カジミェシュは[[マゾフシェ公]][[シェモヴィト3世]]の娘マウゴジャータと再婚した。カジミェシュはこの結婚でも子供をもうけることが出来ず、1377年に亡くなると、腹違いの弟ヴァルチスワフ7世(デンマーク王[[エリク・ア・ポンメルン|エリク]]の父親)がスウプスク公国を継承した。未亡人となったマウゴジャータは[[シロンスク]]のルビン公[[ヘンリク7世・ズ・ブリズノン|ヘンリク7世]]と再婚した。

2021年5月24日 (月) 21:56時点における版

カジミェシュ4世
Kazimierz IV słupski
スウプスク
スウプスク公カジミェシュ4世の印璽、1373年
在位 1374年 - 1377年

出生 1351年
死去 1377年1月2日
配偶者 ケンナ・オナ・ゲディミナイテ
  マウゴジャータ・マゾヴィエツカ
家名 グリフ家
父親 スウプスク=ヴォルガストボグスワフ5世
母親 エルジュビェタ・カジミェジュヴナ
宗教 キリスト教カトリック
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カジミェシュ4世ポーランド語: Kazimierz IV słupskiドイツ語: Kasimir IV1351年 - 1377年1月2日)は、ポモジェスウプスク公(在位:1374年 - 1377年)。スウプスク=ヴォルガストボグスワフ5世の長男、母はポーランド王カジミェシュ3世の娘エルジュビェタ。姉に神聖ローマ皇帝カール4世の妃エルジュビェタがいる。カシコ(Kaźko słupski)の名前で呼ばれることもある。

生涯

カジミェシュ4世は母方の祖父であるポーランド王カジミェシュ3世にとっては唯一の孫息子で、非常に親しかった。1370年に亡くなる際、カジミェシュ3世は自分の王国を孫のスウプスク公子と甥のハンガリー王ラヨシュ1世の間で分割相続させると遺言し、孫にはドブジンブィドゴシュチュクルシュヴィツァズウォトゥフヴァウチュなどクヤヴィ公家の世襲領地を与えると決めた。しかしポーランドの貴族や高位聖職者たちはかつてのポーランド王国の分裂状態が再び起きるのを恐れ、国王の遺言を無視して王国領のほぼ全域と王冠をハンガリー王に差し出した。結局、スウプスク公子カジミェシュには封土という形でドブジンが一時的に与えられたのみだった。

1360年、カジミェシュ4世はリトアニアアルギルダス大公の娘ケンナと結婚した。カジミェシュの母方の祖母アルドナはアルギルダスの姉妹だったので、ケンナとカジミェシュは親族関係にあった。ケンナは東方正教会の信徒として育っており、結婚に際してローマ・カトリックに改宗し、新たに「ヨハンナ」と名乗った。ケンナは子供を産まないうちに、1368年4月に亡くなった。翌1369年の4月、カジミェシュはマゾフシェ公シェモヴィト3世の娘マウゴジャータと再婚した。カジミェシュはこの結婚でも子供をもうけることが出来ず、1377年に亡くなると、腹違いの弟ヴァルチスワフ7世(デンマーク王エリクの父親)がスウプスク公国を継承した。未亡人となったマウゴジャータはシロンスクのルビン公ヘンリク7世と再婚した。

先代
スウプスク
1374年 - 1377年
次代
ヴァルチスワフ7世