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「カレイ (ルーマニア)」の版間の差分

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1320年3月20日付の記録に初めて市の名前がみられる。当時、その村落は ''villa Karul'' と呼ばれていた。
1320年3月20日付の記録に初めて市の名前がみられる。当時、その村落は ''villa Karul'' と呼ばれていた。


文献によると、1346年、カレイに週に一回市を立てることがハンガリー王[[ラヨシュ1世]]から裁可された。この地方における交易の活発化で、市は豊かになり、市街も拡張していったと考えられる。
文献によると、1346年、カレイに週に一回市を立てることがハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]から裁可された。この地方における交易の活発化で、市は豊かになり、市街も拡張していったと考えられる。


中世を通して、戦乱や疫病、飢きんにより人口が押し下げられたため、カーロイ家は[[シュヴァーベン]]から開拓民を募ることにした。1712年に最初の開拓団が到着して以来、一世紀のあいだシュヴァーベン人やスロヴァク人、ユダヤ人による開拓が進んだ。その影響は文化や社会の面にも表れ、1725年には[[エスコラピオス修道会]]がギムナージウムを開校し、1754年には活版印刷所が建てられ、1756年には薬局ができた。19世紀にはいると、軽工業が開花しはじめた。カレイの市制施行は1871年のことであった。
中世を通して、戦乱や疫病、飢きんにより人口が押し下げられたため、カーロイ家は[[シュヴァーベン]]から開拓民を募ることにした。1712年に最初の開拓団が到着して以来、一世紀のあいだシュヴァーベン人やスロヴァク人、ユダヤ人による開拓が進んだ。その影響は文化や社会の面にも表れ、1725年には[[エスコラピオス修道会]]がギムナージウムを開校し、1754年には活版印刷所が建てられ、1756年には薬局ができた。19世紀にはいると、軽工業が開花しはじめた。カレイの市制施行は1871年のことであった。

2021年5月24日 (月) 21:57時点における版

カレイ

ナジカーロイ
基礎自治体
カーロイ城
カーロイ城
カレイの旗
カレイの紋章
紋章
カレイの位置(ルーマニア内)
カレイ
カレイ
カレイの位置
北緯47度41分2.28秒 東経22度28分0.73秒 / 北緯47.6839667度 東経22.4668694度 / 47.6839667; 22.4668694座標: 北緯47度41分2.28秒 東経22度28分0.73秒 / 北緯47.6839667度 東経22.4668694度 / 47.6839667; 22.4668694
 ルーマニア
サトゥ・マーレ県
行政単位 基礎自治体
政府
 • 市長 コヴァーチ・イェネー (ハンガリー人民主同盟)
面積
 • 合計 102 km2
人口
(2007年)
 • 合計 22,611 (INSSE Statistic)
等時帯 UTC+2 (東ヨーロッパ時間)
 • 夏時間 UTC+3 (東ヨーロッパ夏時間)
ウェブサイト www.primariacarei.ro/

カレイカーレイとも、ルーマニア語: Carei, Careii Mar [kaˈrej])は、ルーマニアの北西部、ハンガリー国境に近いサトゥ・マーレ県にある都市。ドイツ名グロースカーロル/グロースカール (Grosskarol, Großkarl)、ハンガリー名ナチカーロイ (Nagykároly [ˈnɒckaːroj])、イディッシュ名カラリー (Karaly, Krole, Kruli)。2011年の国勢調査によると、人口は2万181人で、ハンガリー人が55%、ルーマニア人が40%、ロマとドイツ人がそれぞれ2.5%を占める。

地名

旧家のカーロイ家に由来する。カレイはヤンクレシュティ村(ハンガリー名センチャーノシュマヨル)の行政も取り仕切っている。近隣にはカプレニ、ウルジチェニ、フォイエニ、サニスラウ、ペトレシュティ、ティレアム、カウアシュ、モフティンなど、ハンガリー語が話されるドイツ人起源[要出典]の村々が多い。

歴史

人口推移
人口±%
1910 16,078—    
1930 16,042−0.2%
1948 15,425−3.8%
1956 16,780+8.8%
1966 19,686+17.3%
1977 24,050+22.2%
1992 26,372+9.7%
2002 25,590−3.0%
2011 20,181−21.1%
Source: 国勢調査

1320年3月20日付の記録に初めて市の名前がみられる。当時、その村落は villa Karul と呼ばれていた。

文献によると、1346年、カレイに週に一回市を立てることがハンガリー王ラヨシュ1世から裁可された。この地方における交易の活発化で、市は豊かになり、市街も拡張していったと考えられる。

中世を通して、戦乱や疫病、飢きんにより人口が押し下げられたため、カーロイ家はシュヴァーベンから開拓民を募ることにした。1712年に最初の開拓団が到着して以来、一世紀のあいだシュヴァーベン人やスロヴァク人、ユダヤ人による開拓が進んだ。その影響は文化や社会の面にも表れ、1725年にはエスコラピオス修道会がギムナージウムを開校し、1754年には活版印刷所が建てられ、1756年には薬局ができた。19世紀にはいると、軽工業が開花しはじめた。カレイの市制施行は1871年のことであった。

第一次世界大戦が終結し、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、カレイはトリアノン条約に基づいて、1920年ルーマニア領となった。1938年から1940年にかけて、第三帝国の支援を受けたハンガリーがルーマニアから領土を奪回した。しかし、第二次世界大戦中の1944年10月25日、ルーマニア軍とソ連軍がハンガリー軍とドイツ軍からカレイを解放した。この日付は後に、ルーマニア陸軍記念日として制定された。1947年のパリ条約で、カレイは再びルーマニア領と取り決められた。それ以降カレイはバヤ・マーレ地方(1952年 - 1960年)とマラムレシュ地方(1960年 - 1968年)を経て、1968年からサトゥ・マーレ県の一部となっている。

気候

カレイは大陸性気候である。ルーマニアでも最も北に位置するため、冬の寒さは厳しい。年間平均気温は9.6℃である[1]

サトゥ・マーレの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C°F 1
(34)
3
(37)
10
(50)
15
(59)
20
(68)
22
(72)
25
(77)
25
(77)
21
(70)
15
(59)
7
(45)
2
(36)
13
(55)
平均最低気温 °C°F −5
(23)
−3
(27)
1
(34)
5
(41)
9
(48)
12
(54)
13
(55)
13
(55)
10
(50)
5
(41)
0
(32)
−2
(28)
5
(41)
降水量 cm (inch) 2
(0.8)
2
(0.8)
2
(0.8)
4
(1.6)
7
(2.8)
8
(3.1)
8
(3.1)
7
(2.8)
4
(1.6)
4
(1.6)
3
(1.2)
2
(0.8)
59
(23.2)
出典:weatherbase.com[2]

観光

市内で最も重要な歴史的建築物はカーロイ城である。元々14世紀ごろに要塞として築かれたが、1794年に城に改造されて以来、19世紀を通してさらなる改装を施された。およそ30エーカーの植物園の園内に、邸宅がある。

ゆかりの人物

  • エリク・ビクファルヴィ - サッカー選手
  • ディオニシウ・ブンブ - サッカー選手
  • アドリアン・サラジェアヌ - サッカー選手
  • ミクローシュ・ブローディ - ハンガリー系ルーマニア人のチェスマスター
  • ヴァシ・トゥンデ - ハンガリー人の幅跳び選手
  • イェネー・シェーンベルガー - ハンガリー=ドイツ系ルーマニア人の聖職者。カトリック教会のサトゥ・マーレ教区司教
  • ヨシフ・ブダハジ - ハンガリー系ルーマニア人のフェンシング選手
  • カフカ・マルギト - ハンガリー人の女流作家、詩人
  • メイニグ・アルトゥール(アルトゥール・マイニッヒ) - ハンガリー人(出身はドイツ)の建築家
  • ヤーシ・オスカール - ハンガリー系ユダヤ人の社会科学者、歴史家、政治家
  • アレクサンダー・ラティウ - ルーマニア系ハンガリー人の聖職者(ギリシア正教会)、政治犯、作家
  • カーロイ・ガーシュパール - ハンガリー人のカルヴァン派牧師。1586年、聖書をハンガリー語に訳す
  • ユルチェク・ベーラ - ハンガリーの政治家
  • ロベルト・ロセル - ドイツ系ルーマニア人のサッカー選手

姉妹都市

ギャラリー

脚注

  1. ^ Geografie” (Romanian). www.satu-mare.ro. 2009年6月22日閲覧。
  2. ^ Weatherbase data for Satu Mare”. 2009年6月22日閲覧。

外部リンク

  • 公式サイト (ルーマニア語) (ハンガリー語) (英語) (ドイツ語)