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即位当初は[[ハンガリー王国]]への臣従を拒んだが、[[1354年]]にハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]に臣従する。また、領内での[[カトリック教会]]の宣教活動を認め、[[ブラショヴ]]からワラキアに移動する[[トランシルヴァニア・ザクセン人]]商人に通行料を免除する特権を付与した。[[1355年]]にニコラエ・アレクサンドルはハンガリーへの[[ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリン|セヴェリン]]の返還に合意した。 |
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[[1359年]]に[[コンスタンディヌーポリ総主教庁|コンスタンティノープル総主教]]の承認を受け、[[クルテア・デ・アルジェシュ]]に[[ルーマニア正教会#中世|ウングロ・ワラキア府主教座]]が設立された<ref name="ote"/>。ニコラエ・アレクサンドルはバサラブの遺言に従って教会を建て、クルテア・デ・アルジェシュの公立教会の建立、[[クンプルング・モルドヴェネスク|クンプルング]]の僧院の増築が実施された。また、[[アトス山]]の{{仮リンク|クトゥルムシウ修道院|en|Koutloumousiou monastery}}に寄付を施した。 |
2021年5月24日 (月) 21:58時点における版
ニコラエ・アレクサンドル Nicolae Alexandru | |
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ワラキア公 | |
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在位 | 1352年 - 1364年 |
死去 |
1364年11月 |
埋葬 |
クンプルング |
子女 |
ヴラディスラフ1世 ラドゥ1世 アンナ(イヴァン・スラツィミル妃) アンカ(ステファン・ウロシュ5世妃) |
家名 | バサラブ家 |
王朝 | バサラブ朝 |
父親 | バサラブ1世 |
ニコラエ・アレクサンドル(ルーマニア語: Nicolae Alexandru、? - 1364年11月)は、ルーマニア南部のワラキアの公(在位:1352年 - 1364年)。
父であるバサラブ1世の跡を継いでワラキアを統治した。バサラブ1世の方針を継承して国際社会におけるワラキアの地位を確立し、王朝の基礎を固めた[1]。
生涯
即位当初はハンガリー王国への臣従を拒んだが、1354年にハンガリー王ラヨシュ1世に臣従する。また、領内でのカトリック教会の宣教活動を認め、ブラショヴからワラキアに移動するトランシルヴァニア・ザクセン人商人に通行料を免除する特権を付与した。1355年にニコラエ・アレクサンドルはハンガリーへのセヴェリンの返還に合意した。
1359年にコンスタンティノープル総主教の承認を受け、クルテア・デ・アルジェシュにウングロ・ワラキア府主教座が設立された[1]。ニコラエ・アレクサンドルはバサラブの遺言に従って教会を建て、クルテア・デ・アルジェシュの公立教会の建立、クンプルングの僧院の増築が実施された。また、アトス山のクトゥルムシウ修道院に寄付を施した。
ニコラエ・アレクサンドルはブルガリアのヴィディンの僭主イヴァン・スラツィミル、セルビア帝国のステファン・ウロシュ5世、ハンガリーのラディスラウ・オッペルンと婚姻関係を構築した[1]。イヴァン・スラツィミルの元に嫁いだ娘のアンナは、コンスタンティン2世、ボスニアの王女ドロテアの母となった。
1364年にニコラエ・アレクサンドルは没し、クンプルングに埋葬された[1]。公位は息子のヴラディスラフ1世が継いだ。
脚注
参考文献
- アンドレイ・オツェテァ『ルーマニア史』1巻(鈴木四郎、鈴木学共訳、恒文社、1977年5月)
翻訳元記事参考文献
- (ルーマニア語) Constantin C. Giurescu, Istoria Românilor, vol. I, Ed. ALL Educațional, București, 2003.
- (ルーマニア語) Daniel Barbu, Sur le double nom du prince de Valachie Nicolas-Alexandre, Revue Roumaine d’Histoire XXV, no. 4, 1986.
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