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「ドロテア (ボスニア王妃)」の版間の差分

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== 虜囚時代 ==
== 虜囚時代 ==
ドロテアはブルガリア皇帝[[イヴァン・スラツィミル]]の娘で、母はイヴァンの従妹で二番目の妃[[アンナ・バサラブ]]である。1365年、[[ハンガリー君主一覧|ハンガリー王]][[ラヨシュ1世]]がイヴァン・スラツィミルの帝国の首都[[ヴィディン]]を占領し、ドロテアは家族と共に[[中央クロアチア]]の[[ボシルイェヴォ]]にある[[フムニク要塞]]に投獄された{{Sfn|Ćorović|1964|loc=part 3, chapter 11}}。4年の虜囚生活の間に、ドロテアは[[ブルガリア正教会]]から[[カトリック教会]]へ改宗させられた{{Sfn|Bozhilov|Gyuzelev|1999|p=604-605}}。
ドロテアはブルガリア皇帝[[イヴァン・スラツィミル]]の娘で、母はイヴァンの従妹で二番目の妃[[アンナ・バサラブ]]である。1365年、[[ハンガリー君主一覧|ハンガリー王]][[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]がイヴァン・スラツィミルの帝国の首都[[ヴィディン]]を占領し、ドロテアは家族と共に[[中央クロアチア]]の[[ボシルイェヴォ]]にある[[フムニク要塞]]に投獄された{{Sfn|Ćorović|1964|loc=part 3, chapter 11}}。4年の虜囚生活の間に、ドロテアは[[ブルガリア正教会]]から[[カトリック教会]]へ改宗させられた{{Sfn|Bozhilov|Gyuzelev|1999|p=604-605}}。


父イヴァン・スラツィミルは1369年に釈放され、ラヨシュ1世の属国として復帰した。しかしドロテアら姉妹はハンガリー宮廷に名誉ある人質として留め置かれた{{Sfn|Fine|1994|p=367}}{{Sfn|Fine|1994|p=370}}。ドロテアは王妃[[エリザベタ・コトロマニッチ|コトロマニッチ・エルジェーベト]]や王母[[エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ|ウォキェテク・エルジェーベト]]に目をかけられた{{Sfn|Aničić|1997|p=187}}。[[マヴロ・オルビニ]]によれば、ドロテアは王妃に[[女官]]として仕えていた{{Sfn|Ćorović|1964|loc=part 3, chapter 11}}。姉妹が夭折してしまった中、ドロテアはラヨシュ1世にも気に入られるようになった{{Sfn|Fine|1994|p=367}}{{Sfn|Andreev|Lazarov|Pavlov|1999|p=209}}。
父イヴァン・スラツィミルは1369年に釈放され、ラヨシュ1世の属国として復帰した。しかしドロテアら姉妹はハンガリー宮廷に名誉ある人質として留め置かれた{{Sfn|Fine|1994|p=367}}{{Sfn|Fine|1994|p=370}}。ドロテアは王妃[[エリザベタ・コトロマニッチ|コトロマニッチ・エルジェーベト]]や王母[[エルジュビェタ・ウォキェトクヴナ|ウォキェテク・エルジェーベト]]に目をかけられた{{Sfn|Aničić|1997|p=187}}。[[マヴロ・オルビニ]]によれば、ドロテアは王妃に[[女官]]として仕えていた{{Sfn|Ćorović|1964|loc=part 3, chapter 11}}。姉妹が夭折してしまった中、ドロテアはラヨシュ1世にも気に入られるようになった{{Sfn|Fine|1994|p=367}}{{Sfn|Andreev|Lazarov|Pavlov|1999|p=209}}。

2021年5月24日 (月) 21:59時点における版

ドロテア (ボスニア王妃)

在位期間
1377年 – 1390年ごろ

死亡 1390年ごろ
王室 シシュマン家
父親 イヴァン・スラツィミル
母親 アンナ・バサラブ
配偶者 スティエパン・トヴルトコ1世
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ドロテア (ブルガリア語: Доротея, セルビア・クロアチア語: Doroteja/Доротеја; 1390年ごろ没)は、第二次ブルガリア帝国ツァーリイヴァン・スラツィミルの娘。ハンガリー王ラヨシュ1世の虜囚を経て、ボスニアのバンであるスティエパン・トヴルトコ1世と結婚した。後にトヴルトコがボスニア王となったことで、ドロテアは初代ボスニア王妃となった。ボスニア語風にドロスラヴァ (Дорослава)と呼ばれることもある。スティエパン・トヴルトコ2世の母である可能性がある。

虜囚時代

ドロテアはブルガリア皇帝イヴァン・スラツィミルの娘で、母はイヴァンの従妹で二番目の妃アンナ・バサラブである。1365年、ハンガリー王ラヨシュ1世がイヴァン・スラツィミルの帝国の首都ヴィディンを占領し、ドロテアは家族と共に中央クロアチアボシルイェヴォにあるフムニク要塞に投獄された[1]。4年の虜囚生活の間に、ドロテアはブルガリア正教会からカトリック教会へ改宗させられた[2]

父イヴァン・スラツィミルは1369年に釈放され、ラヨシュ1世の属国として復帰した。しかしドロテアら姉妹はハンガリー宮廷に名誉ある人質として留め置かれた[3][4]。ドロテアは王妃コトロマニッチ・エルジェーベトや王母ウォキェテク・エルジェーベトに目をかけられた[5]マヴロ・オルビニによれば、ドロテアは王妃に女官として仕えていた[1]。姉妹が夭折してしまった中、ドロテアはラヨシュ1世にも気に入られるようになった[3][6]

結婚

ボスニアのバンでラヨシュ1世に従属する領主の一人だったスティエパン・トヴルトコ1世は、おそらくドロテアがクロアチアで虜囚となっていたころに彼女のことを聞き知っていた[1]。ラヨシュ1世はトヴルトコに、彼女との結婚を提案した。ラヨシュ1世は自らドロテアの代理として結婚交渉を進めた[3]。1374年12月前半、2人の結婚式がハンガリー支配下のスレム地方、おそらくはジャコヴォイリンツィで執り行われた。祝賀の祭りがイリンツィで開催されたことは確実である。[7]

1377年10月、トヴルトコはボスニア王として戴冠し、それに伴いドロテアは最初のボスニア王妃となった。スティエパン・トヴルトコ1世は国政にあたりドロテアに協力を仰いでいたようで、義母イェレナ・シュビッチと共に夫の発行する特許状の証人となり、これを遵守することを誓っている[8]。例えば1382年にラグサ共和国に向け発行された特許状には、王や王子らと共にドロテアの名が記されている。この王子はおそらくドロテアの子で、後のスティエパン・トヴルトコ2世であるとみられている[9]

ドロテアは1390年のすぐ前に亡くなったとみられている。というのも、この年にスティエパン・トヴルトコ1世が再婚相手を求めてハプスブルク家と交渉しているためである[10]

脚注

  1. ^ a b c Ćorović 1964, part 3, chapter 11.
  2. ^ Bozhilov & Gyuzelev 1999, p. 604-605.
  3. ^ a b c Fine 1994, p. 367.
  4. ^ Fine 1994, p. 370.
  5. ^ Aničić 1997, p. 187.
  6. ^ Andreev, Lazarov & Pavlov 1999, p. 209.
  7. ^ Živković 1981, p. 24.
  8. ^ Babić 1972, p. 107.
  9. ^ Živković 1981, p. 23.
  10. ^ Ćorović 1964, part 3, chapter 12.

参考文献

  • Ančić, Mladen (1997) (Serbo-Croatian). Putanja klatna: Ugarsko-hrvatsko kraljevstvo i Bosna u XIV. stoljeću. Hrvatska akademija znanosti i umjetnosti 
  • Andreev, Jordan; Lazarov, Ivan; Pavlov, Plamen (1999) (Bulgarian). Кой кой е в средновековна България. Petar Veron. ISBN 978-954-402-047-7 
  • Babić, Anto (1972) (Serbo-Croatian). Iz istorije srednjovjekovne Bosne. Sarajevo: Svjetlost 
  • Вожилов (Bozhilov), Иван (Ivan); Гюзелев, Васил (1999) (Bulgarian). История на средновековна България VII-XIV век (History of Medieval Bulgaria 7th-14th centuries). София (Sofia): Анубис (Anubis). ISBN 954-426-204-0 
  • Bozhilov, Ivan; Gyuzelev, Vasil (1999) (Bulgarian). История на средновековна България VII-XIV век (History of Medieval Bulgaria 7th-14th centuries). Sofia: Anubis. ISBN 954-426-204-0 
  • Ćorović, Vladimir (2001). Istorija srpskog naroda. Janus. https://www.rastko.rs/rastko-bl/istorija/corovic/istorija/index_l.html 
  • Fine, John Van Antwerp, Jr. (1994). The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. Michigan: University of Michigan Press. ISBN 0-472-08260-4 
  • Živković, Pavo (1981) (Serbo-Croatian). Tvrtko II Tvrtković: Bosna u prvoj polovini xv stoljeća. Sarajevo: Institut za istoriju. ISBN 0-472-08260-4