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「ボグダン1世」の版間の差分

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'''ボグダン1世'''(Bogdan I 、 [[1307年]] - [[1367年]])は、14世紀の[[モルダヴィア|モルダヴィア公]](在位:1359年 - 1367年)。ボグダン朝モルダヴィア公国の創始者。
'''ボグダン1世'''(Bogdan I 、 [[1307年]] - [[1367年]])は、14世紀の[[モルダヴィア|モルダヴィア公]](在位:1359年 - 1367年)。ボグダン朝モルダヴィア公国の創始者。
== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[マラムレシュ県|マラムレシュ]]地方の領主ボグダンは同地方への[[ハンガリー王国]]の支配強化に対する抵抗運動を行っていたが、失敗し東隣のモルダヴィアに逃れた。当時、モルダヴィアは対[[タタール]]戦に功のあった[[ドラゴシュ]]家が統治していたが、ドラゴシュ家のハンガリー依存に有力者たちの不満が高まっていた。そこで彼らはボグダンを[[ヴォイヴォダ|ヴォエヴォド]](大公、指導者)に選び、ハンガリーからの独立運動を開始した。ボグダンはドラゴシュの孫・[[バルシュ (モルダヴィア公)|バルシュ]]を追放したが、ハンガリー王[[ラヨシュ1世]]は[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]との抗争や[[ステファン・ドゥシャン]]死後の[[セルビア王国 (中世)|セルビア]]情勢によってこの反乱を鎮圧することが出来ず、やむなくマラムレシュのボグダンの資産を没収してバルシュに与えた。1359年、モルダヴィア公国の独立が達成された。
[[マラムレシュ県|マラムレシュ]]地方の領主ボグダンは同地方への[[ハンガリー王国]]の支配強化に対する抵抗運動を行っていたが、失敗し東隣のモルダヴィアに逃れた。当時、モルダヴィアは対[[タタール]]戦に功のあった[[ドラゴシュ]]家が統治していたが、ドラゴシュ家のハンガリー依存に有力者たちの不満が高まっていた。そこで彼らはボグダンを[[ヴォイヴォダ|ヴォエヴォド]](大公、指導者)に選び、ハンガリーからの独立運動を開始した。ボグダンはドラゴシュの孫・[[バルシュ (モルダヴィア公)|バルシュ]]を追放したが、ハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]は[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]との抗争や[[ステファン・ドゥシャン]]死後の[[セルビア王国 (中世)|セルビア]]情勢によってこの反乱を鎮圧することが出来ず、やむなくマラムレシュのボグダンの資産を没収してバルシュに与えた。1359年、モルダヴィア公国の独立が達成された。


1367年、ボグダンは死去し、公位は息子のペトル1世が継いだ。
1367年、ボグダンは死去し、公位は息子のペトル1世が継いだ。

2021年5月24日 (月) 21:59時点における最新版

ボグダン1世
Bogdan I
モルダヴィア公
在位 1359年 - 1367年

出生 1307年
死去 1367年
子女 シュテファン
ペトル1世
ラツク
王朝 ボグダン・ムシャット朝
宗教 正教会
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ボグダン1世(Bogdan I 、 1307年 - 1367年)は、14世紀のモルダヴィア公(在位:1359年 - 1367年)。ボグダン朝モルダヴィア公国の創始者。

生涯[編集]

マラムレシュ地方の領主ボグダンは同地方へのハンガリー王国の支配強化に対する抵抗運動を行っていたが、失敗し東隣のモルダヴィアに逃れた。当時、モルダヴィアは対タタール戦に功のあったドラゴシュ家が統治していたが、ドラゴシュ家のハンガリー依存に有力者たちの不満が高まっていた。そこで彼らはボグダンをヴォエヴォド(大公、指導者)に選び、ハンガリーからの独立運動を開始した。ボグダンはドラゴシュの孫・バルシュを追放したが、ハンガリー王ラヨシュ1世ヴェネツィアとの抗争やステファン・ドゥシャン死後のセルビア情勢によってこの反乱を鎮圧することが出来ず、やむなくマラムレシュのボグダンの資産を没収してバルシュに与えた。1359年、モルダヴィア公国の独立が達成された。

1367年、ボグダンは死去し、公位は息子のペトル1世が継いだ。

参考文献[編集]

  • アンドレイ・オツェテァ『ルーマニア史』1巻(鈴木四郎、鈴木学共訳, 恒文社, 1977年5月)
  • 柴宜弘『図説 バルカンの歴史』(増補四訂新装版)(河出書房新社, 2019年11月)
先代
バルシュ
モルダヴィア公
1359年 - 1367年
次代
ペトル1世