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石工のレオナルド・ディ・アントーニオの子として、[[フィエーゾレ]]近郊の[[マイアーノ]]で生まれる。[[1463年]]と[[1465年]]にジュリアーノが依頼された[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]の聖具室の寄木細工に携わり、その大部分を作成した。寄木細工の仕事としては、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ]]に化粧箱を納めたが、[[ヴァザーリ]]によれば、自分の作品の出来映えに納得のゆかなかった彼は、以後彫刻に専念することを決意した。 |
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[[フィレンツェ]]では、兄のジュリアーノに委託された彫刻作品の製作を手伝い、[[1473年]]には、石工・木工師組合に登録され、[[ファエンツァ]]大聖堂の[[聖サヴィヌス]]の墓碑、[[サンタ・クローチェ聖堂 (フィレンツェ)|サンタ・クローチェ聖堂]]の説教壇を製作した。また、彼はフィリッポ・ストロッツィから依頼を受け、パラッツォ・ストロッツィの建築にも携わっている。彼の死後、建設は[[イル・クローナカ]]により引き継がれた。 |
2021年5月24日 (月) 22:02時点における版
ベネデット・ダ・マイアーノ(Benedetto da Maiano、1442年 - 1497年5月24日)は、ルネサンス期イタリアの彫刻家、木工細工師、建築家。ジュリアーノ・ダ・マイアーノの弟。
経歴
石工のレオナルド・ディ・アントーニオの子として、フィエーゾレ近郊のマイアーノで生まれる。1463年と1465年にジュリアーノが依頼されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の聖具室の寄木細工に携わり、その大部分を作成した。寄木細工の仕事としては、ハンガリー王マーチャーシュに化粧箱を納めたが、ヴァザーリによれば、自分の作品の出来映えに納得のゆかなかった彼は、以後彫刻に専念することを決意した。
フィレンツェでは、兄のジュリアーノに委託された彫刻作品の製作を手伝い、1473年には、石工・木工師組合に登録され、ファエンツァ大聖堂の聖サヴィヌスの墓碑、サンタ・クローチェ聖堂の説教壇を製作した。また、彼はフィリッポ・ストロッツィから依頼を受け、パラッツォ・ストロッツィの建築にも携わっている。彼の死後、建設はイル・クローナカにより引き継がれた。
晩年はあまり作品をつくらなかったようで、サンタ・マリア・デル・フィオーレの『十字架像』のほか、わずかしか知られていない。
1497年、54歳で死に、サン・ロレンツォ聖堂に葬られた。
主要作品
- 戸棚寄木細工(サンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂聖具室 フィレンツェ)
- ジョットの胸像(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 フィレンツェ)
- 『受胎告知』(サンタ・アンナ・ディ・ロンバルディ聖堂 ナポリ)
- 『聖サヴィヌスの墓碑』(ファエンツァ大聖堂 ファエンツァ)
- 『ピエトロ・メッリーニの説教壇』(サンタ・クローチェ聖堂 フィレンツェ)
- 1489年起工 パラッツォ・ストロッツィ(フィレンツェ)
- 1490年頃製作『十字架像』(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂 フィレンツェ)
参考文献
- ジョルジョ・ヴァザーリ著 森田義之監訳『ルネサンス彫刻家建築家列伝』(白水社)