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「マルガレーテ・フォン・エスターライヒ (1536-1567)」の版間の差分

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== 生涯 ==
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フェルディナント1世とその妻で[[ハンガリー]]王・[[ボヘミア]]王[[ウラースロー2世]]の娘[[アンナ・ヤギエロ|アンナ]]の間の第9子、七女として生まれた。当時の王女としては比較的質素に育てられ、厳格な[[カトリック教会|カトリック]]教育を受けた。1550年、[[アウクスブルク]]で開かれた帝国議会に際し、父フェルディナントと兄の皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]、姉のハンガリー前王妃[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]が次期皇帝の選定問題について交渉を行っていた。このときマリアは兄弟の仲裁役として、フェルディナントの娘マルガレーテとカールの息子フェリペ(後の[[スペイン]]王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])との縁組によるスペイン系とオーストリア系の対立の解消を提案した。しかしこの提案は選定問題に決着がつくと忘れられた<ref>Friedrich Edelmayer: ''Philipp II. (1527-1598): die Biografie eines Weltherrschers'', W. Kohlhammer Verlag, 2009, S. 69</ref>。
フェルディナント1世とその妻で[[ハンガリー]]王・[[ボヘミア]]王[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]の娘[[アンナ・ヤギエロ|アンナ]]の間の第9子、七女として生まれた。当時の王女としては比較的質素に育てられ、厳格な[[カトリック教会|カトリック]]教育を受けた。1550年、[[アウクスブルク]]で開かれた帝国議会に際し、父フェルディナントと兄の皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]、姉のハンガリー前王妃[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]が次期皇帝の選定問題について交渉を行っていた。このときマリアは兄弟の仲裁役として、フェルディナントの娘マルガレーテとカールの息子フェリペ(後の[[スペイン]]王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]])との縁組によるスペイン系とオーストリア系の対立の解消を提案した。しかしこの提案は選定問題に決着がつくと忘れられた<ref>Friedrich Edelmayer: ''Philipp II. (1527-1598): die Biografie eines Weltherrschers'', W. Kohlhammer Verlag, 2009, S. 69</ref>。


マルガレーテは父皇帝の死後、自分と同じ未婚だった姉[[マグダレーナ・フォン・エスターライヒ|マグダレーナ]]、妹[[ヘレーナ・フォン・エスターライヒ|ヘレーナ]]と一緒に[[ハル・イン・チロル]]に移って女子修道院を開いたが、1年後に死去した<ref>Ludwig Albrecht Gebhardi: ''Genealogische Geschichte der erblichen Reichsstände in Teutschland, Band 2, Gebauer, 1779, S. 448 [http://books.google.de/books?id=dadBAAAAcAAJ&pg=PA448 Digitalisat]</ref>。死去当時はまた修道院や教会など施設建物も完成しておらず、遺骸は1572年になって[[イエズス会]]の教会に移されて改葬された。5年ぶりに棺が開かれた際、遺骸は腐敗や欠損が進んでいなかったという証言が残されている。
マルガレーテは父皇帝の死後、自分と同じ未婚だった姉[[マグダレーナ・フォン・エスターライヒ|マグダレーナ]]、妹[[ヘレーナ・フォン・エスターライヒ|ヘレーナ]]と一緒に[[ハル・イン・チロル]]に移って女子修道院を開いたが、1年後に死去した<ref>Ludwig Albrecht Gebhardi: ''Genealogische Geschichte der erblichen Reichsstände in Teutschland, Band 2, Gebauer, 1779, S. 448 [http://books.google.de/books?id=dadBAAAAcAAJ&pg=PA448 Digitalisat]</ref>。死去当時はまた修道院や教会など施設建物も完成しておらず、遺骸は1572年になって[[イエズス会]]の教会に移されて改葬された。5年ぶりに棺が開かれた際、遺骸は腐敗や欠損が進んでいなかったという証言が残されている。

2021年5月24日 (月) 22:15時点における版

マルガレーテ・フォン・エスターライヒ
Margarethe von Österreich

出生 (1536-02-16) 1536年2月16日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国インスブルック
死去 (1567-03-12) 1567年3月12日(31歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ハル・イン・チロル
埋葬 1572年
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国ハル・イン・チロル、イエズス会教会
家名 ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝フェルディナント1世
母親 アンナ・ヤギエロ
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マルガレーテ・フォン・エスターライヒ(Erzherzogin Margarethe von Österreich, 1536年2月16日 - 1567年3月12日)は、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘で、ハル女子修道院(Haller Damenstift)の共同創立者。

生涯

フェルディナント1世とその妻でハンガリー王・ボヘミアウラースロー2世の娘アンナの間の第9子、七女として生まれた。当時の王女としては比較的質素に育てられ、厳格なカトリック教育を受けた。1550年、アウクスブルクで開かれた帝国議会に際し、父フェルディナントと兄の皇帝カール5世、姉のハンガリー前王妃マリアが次期皇帝の選定問題について交渉を行っていた。このときマリアは兄弟の仲裁役として、フェルディナントの娘マルガレーテとカールの息子フェリペ(後のスペインフェリペ2世)との縁組によるスペイン系とオーストリア系の対立の解消を提案した。しかしこの提案は選定問題に決着がつくと忘れられた[1]

マルガレーテは父皇帝の死後、自分と同じ未婚だった姉マグダレーナ、妹ヘレーナと一緒にハル・イン・チロルに移って女子修道院を開いたが、1年後に死去した[2]。死去当時はまた修道院や教会など施設建物も完成しておらず、遺骸は1572年になってイエズス会の教会に移されて改葬された。5年ぶりに棺が開かれた際、遺骸は腐敗や欠損が進んでいなかったという証言が残されている。

参考文献

  • Constantin von Wurzbach: Habsburg, Margaretha (Tochter des Kaisers Ferdinand I.). Nr. 190. In: Biographisches Lexikon des Kaiserthums Oesterreich. Band 7. Verlag L. C. Zamarski, Wien 1861, S. 11.

脚注

  1. ^ Friedrich Edelmayer: Philipp II. (1527-1598): die Biografie eines Weltherrschers, W. Kohlhammer Verlag, 2009, S. 69
  2. ^ Ludwig Albrecht Gebhardi: Genealogische Geschichte der erblichen Reichsstände in Teutschland, Band 2, Gebauer, 1779, S. 448 Digitalisat