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「モハーチの戦い」の版間の差分

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当時[[オスマン帝国]]は[[スレイマン1世]]の時代で、[[1522年]]に[[ロドス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]を退けるなど国力、戦力ともに充実していた。スレイマン1世は[[ベオグラード]]を「ヨーロッパの玄関」と言い、さらなるヨーロッパ進出に意欲を見せていた。


1526年4月にスレイマン1世は6万人以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服の為[[イスタンブール]]から進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王[[ラヨシュ2世]]率いる3万人の軍勢であったが、[[トランシルヴァニア]]侯[[サポヤイ・ヤーノシュ]]からの3万人、縁戚の[[ハプスブルク家]]や[[ボヘミア]]からの数千人の加勢を得、兵数としては互角であった。
1526年4月にスレイマン1世は6万人以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服の為[[イスタンブール]]から進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]率いる3万人の軍勢であったが、[[トランシルヴァニア]]侯[[サポヤイ・ヤーノシュ]]からの3万人、縁戚の[[ハプスブルク家]]や[[ボヘミア]]からの数千人の加勢を得、兵数としては互角であった。


ところが、オスマン帝国軍が[[ドナウ川]]のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。さらにラヨシュ2世が増水した川を渡る途中で落馬して戦死。統制が取れてないハンガリー軍に対しオスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し圧勝した。戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都[[ブダ]]([[ブダペスト]]の一部)に進駐し、帰国した。
ところが、オスマン帝国軍が[[ドナウ川]]のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。さらにラヨシュ2世が増水した川を渡る途中で落馬して戦死。統制が取れてないハンガリー軍に対しオスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し圧勝した。戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都[[ブダ]]([[ブダペスト]]の一部)に進駐し、帰国した。

2021年5月24日 (月) 22:19時点における版

モハーチの戦い

モハーチの戦い
戦争墺土戦争
年月日1526年8月29日
場所モハーチ平原(ハンガリー)
結果:オスマン側の決定的勝利
交戦勢力
オスマン帝国の旗 オスマン帝国 ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国
指導者・指揮官
スレイマン1世 ラヨシュ2世 
トモリ・パール 
ペーテル・ペレーニ
戦力
60,000以上
大砲300
ハンガリー軍30,000
、他国からの援兵30,000以上(戦闘に間に合わず)
損害
2,000 20,000

モハーチの戦い(モハーチのたたかい、ハンガリー語: Mohácsi csataトルコ語: Mohaç Muharebesi)は、1526年8月29日ハンガリーモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。

経過

当時オスマン帝国スレイマン1世の時代で、1522年ロドス島聖ヨハネ騎士団を退けるなど国力、戦力ともに充実していた。スレイマン1世はベオグラードを「ヨーロッパの玄関」と言い、さらなるヨーロッパ進出に意欲を見せていた。

1526年4月にスレイマン1世は6万人以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服の為イスタンブールから進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王ラヨシュ2世率いる3万人の軍勢であったが、トランシルヴァニアサポヤイ・ヤーノシュからの3万人、縁戚のハプスブルク家ボヘミアからの数千人の加勢を得、兵数としては互角であった。

ところが、オスマン帝国軍がドナウ川のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。さらにラヨシュ2世が増水した川を渡る途中で落馬して戦死。統制が取れてないハンガリー軍に対しオスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し圧勝した。戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都ブダブダペストの一部)に進駐し、帰国した。

影響

この戦いでオスマン帝国軍が勝利した結果、ハンガリー領は3分割された。

ハンガリー平原へと進出したオスマン帝国は、ハンガリー中央部を150年間支配した。空位となったハンガリー王には、ハンガリー貴族によって選ばれたサポヤイ・ヤーノシュと、ハプスブルク家によって1515年の規定に従いハンガリーとボヘミアの王に選ばれたカール5世の弟フェルディナントが即位し、2王朝が対立した。3年後の1529年、ハンガリー王位の争いに敗れたヤーノシュの要請に応じて、スレイマン1世は再びハンガリーに進軍し、さらにウィーンを包囲した(第一次ウィーン包囲)。

脚注