「モハーチの戦い」の版間の差分
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ラヨシュ2世 (ハンガリー王)) - log |
||
12行目: | 12行目: | ||
|combatant2={{HUN1867}} |
|combatant2={{HUN1867}} |
||
|commander1=[[スレイマン1世]] |
|commander1=[[スレイマン1世]] |
||
|commander2=[[ラヨシュ2世]]{{KIA}}<br />[[トモリ・パール]]{{KIA}}<br />[[ペーテル・ペレーニ]] |
|commander2=[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]{{KIA}}<br />[[トモリ・パール]]{{KIA}}<br />[[ペーテル・ペレーニ]] |
||
|strength1=60,000以上<br />大砲300 |
|strength1=60,000以上<br />大砲300 |
||
|strength2=ハンガリー軍30,000<br />、他国からの援兵30,000以上(戦闘に間に合わず) |
|strength2=ハンガリー軍30,000<br />、他国からの援兵30,000以上(戦闘に間に合わず) |
||
23行目: | 23行目: | ||
当時[[オスマン帝国]]は[[スレイマン1世]]の時代で、[[1522年]]に[[ロドス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]を退けるなど国力、戦力ともに充実していた。スレイマン1世は[[ベオグラード]]を「ヨーロッパの玄関」と言い、さらなるヨーロッパ進出に意欲を見せていた。 |
当時[[オスマン帝国]]は[[スレイマン1世]]の時代で、[[1522年]]に[[ロドス島]]の[[聖ヨハネ騎士団]]を退けるなど国力、戦力ともに充実していた。スレイマン1世は[[ベオグラード]]を「ヨーロッパの玄関」と言い、さらなるヨーロッパ進出に意欲を見せていた。 |
||
1526年4月にスレイマン1世は6万人以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服の為[[イスタンブール]]から進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王[[ラヨシュ2世]]率いる3万人の軍勢であったが、[[トランシルヴァニア]]侯[[サポヤイ・ヤーノシュ]]からの3万人、縁戚の[[ハプスブルク家]]や[[ボヘミア]]からの数千人の加勢を得、兵数としては互角であった。 |
1526年4月にスレイマン1世は6万人以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服の為[[イスタンブール]]から進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]率いる3万人の軍勢であったが、[[トランシルヴァニア]]侯[[サポヤイ・ヤーノシュ]]からの3万人、縁戚の[[ハプスブルク家]]や[[ボヘミア]]からの数千人の加勢を得、兵数としては互角であった。 |
||
ところが、オスマン帝国軍が[[ドナウ川]]のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。さらにラヨシュ2世が増水した川を渡る途中で落馬して戦死。統制が取れてないハンガリー軍に対しオスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し圧勝した。戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都[[ブダ]]([[ブダペスト]]の一部)に進駐し、帰国した。 |
ところが、オスマン帝国軍が[[ドナウ川]]のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。さらにラヨシュ2世が増水した川を渡る途中で落馬して戦死。統制が取れてないハンガリー軍に対しオスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し圧勝した。戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都[[ブダ]]([[ブダペスト]]の一部)に進駐し、帰国した。 |
2021年5月24日 (月) 22:19時点における版
モハーチの戦い | |
---|---|
モハーチの戦い | |
戦争:墺土戦争 | |
年月日:1526年8月29日 | |
場所:モハーチ平原(ハンガリー) | |
結果:オスマン側の決定的勝利 | |
交戦勢力 | |
オスマン帝国 | ハンガリー王国 |
指導者・指揮官 | |
スレイマン1世 | ラヨシュ2世 † トモリ・パール † ペーテル・ペレーニ |
戦力 | |
60,000以上 大砲300 |
ハンガリー軍30,000 、他国からの援兵30,000以上(戦闘に間に合わず) |
損害 | |
2,000 | 20,000 |
モハーチの戦い(モハーチのたたかい、ハンガリー語: Mohácsi csata、トルコ語: Mohaç Muharebesi)は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。
経過
当時オスマン帝国はスレイマン1世の時代で、1522年にロドス島の聖ヨハネ騎士団を退けるなど国力、戦力ともに充実していた。スレイマン1世はベオグラードを「ヨーロッパの玄関」と言い、さらなるヨーロッパ進出に意欲を見せていた。
1526年4月にスレイマン1世は6万人以上の兵力と300門の大砲からなる大軍を催し、ハンガリー征服の為イスタンブールから進軍した。迎え撃つハンガリー軍は20歳の国王ラヨシュ2世率いる3万人の軍勢であったが、トランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュからの3万人、縁戚のハプスブルク家やボヘミアからの数千人の加勢を得、兵数としては互角であった。
ところが、オスマン帝国軍がドナウ川のほとりモハーチに姿を現すと、ハンガリー軍は援軍を待たずに戦いを挑んでしまう。さらにラヨシュ2世が増水した川を渡る途中で落馬して戦死。統制が取れてないハンガリー軍に対しオスマン帝国軍は組織的な戦術を展開し圧勝した。戦闘後、9月にはスレイマン1世はハンガリーの首都ブダ(ブダペストの一部)に進駐し、帰国した。
影響
この戦いでオスマン帝国軍が勝利した結果、ハンガリー領は3分割された。
- ハプスブルク家が統治する王領ハンガリー(1526年 - 1867年)/ハンガリー王国(1000年 - 1918年)
- 東ハンガリー王国(1529年 - 1570年)/トランシルヴァニア公国(1571年 - 1711年)
- オスマン帝国領ハンガリー(1541年 - 1699年)/ブディン・エヤレト(1541年 - 1686年)
ハンガリー平原へと進出したオスマン帝国は、ハンガリー中央部を150年間支配した。空位となったハンガリー王には、ハンガリー貴族によって選ばれたサポヤイ・ヤーノシュと、ハプスブルク家によって1515年の規定に従いハンガリーとボヘミアの王に選ばれたカール5世の弟フェルディナントが即位し、2王朝が対立した。3年後の1529年、ハンガリー王位の争いに敗れたヤーノシュの要請に応じて、スレイマン1世は再びハンガリーに進軍し、さらにウィーンを包囲した(第一次ウィーン包囲)。