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*レオポルト(1207年 - 1216年)
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*ハインリヒ(1208年 - 1228年) - [[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)|ヘルマン1世]]の娘アグネスと結婚し、1女ゲルトルートをもうける。ゲルトルートは[[バーデン (領邦)|バーデン]]辺境伯[[ヘルマン6世 (バーデン辺境伯)|ヘルマン6世]]と結婚、死別後に[[キエフ大公]][[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ]]の息子ロマンと再婚、フリードリヒ2世の死後、バーベンベルク家の女子相続人となる。
*ハインリヒ(1208年 - 1228年) - [[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ヘルマン1世 (テューリンゲン方伯)|ヘルマン1世]]の娘アグネスと結婚し、1女ゲルトルートをもうける。ゲルトルートは[[バーデン (領邦)|バーデン]]辺境伯[[ヘルマン6世 (バーデン辺境伯)|ヘルマン6世]]と結婚、死別後に[[キエフ大公]][[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ]]の息子ロマンと再婚、フリードリヒ2世の死後、バーベンベルク家の女子相続人となる。
*ゲルトルート(1210年 - 1241年) - テューリンゲン方伯[[ハインリヒ・ラスペ]]妃
*ゲルトルート(1210年 - 1241年) - テューリンゲン方伯[[ハインリヒ・ラスペ (テューリンゲン方伯)|ハインリヒ・ラスペ]]妃
*[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]](1211年 - 1246年) - オーストリア公
*[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]](1211年 - 1246年) - オーストリア公
*コンスタンツェ(1212年 - 1243年) - [[マイセン辺境伯]][[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]]妃
*コンスタンツェ(1212年 - 1243年) - [[マイセン辺境伯]][[ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)|ハインリヒ3世]]妃

2021年5月26日 (水) 21:30時点における版

テオドラ・アンゲリナ
Theodora Angelina
ブルガリア皇后
オーストリア公妃
テオドラ・アンゲリナの紋章

出生 1180/85年
コンスタンティノープル
死去 1246年6月22日/23日
カーレンベルク
配偶者 ワラキア=ブルガリア帝国皇帝イヴァンコ
  ドブロミル
  オーストリア公レオポルト6世
子女 マルガレーテ
アグネス
レオポルト
ハインリヒ
ゲルトルート
フリードリヒ2世
コンスタンツェ
父親 イサキオス・コムネノス
母親 アンナ・アンゲリナ
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テオドラ・アンゲリナ(Theodora Angelina, 生没年不詳)は、バーベンベルク家オーストリア公レオポルト6世の妻。イサキオス・コムネノス(東ローマ帝国マヌエル1世コムネノスの甥の子)と皇女アンナ・アンゲリナ(皇帝アレクシオス3世アンゲロスの子)の唯一の子。

生涯

1197年ワラキア=ブルガリア帝国第2代皇帝イヴァンコ(イヴァン・アセン1世を殺して即位)と結婚。東ローマ帝国に恭順の意を表明し、アレクシオスの名まで賜っていたイヴァンコは1198年にすぐさま反旗を翻し、父イサキオスは、夫の属するワラキア=ブルガリアの捕虜となって死んだ。将軍マヌエル・ヴァタツェスは彼を捕らえ、テオドラは夫と離婚した。

1200年頃、彼女はワラキア=ブルガリアの指導者であるドブロミル(将軍マヌエルの義理の息子)の3人目の妻となっていた。

後に第4回十字軍のもたらした東ローマ帝国の崩壊のさなか、テオドラはレオポルト6世と結婚した。2人には7子が生まれた。

脚注

参考文献

関連項目