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2021年5月29日 (土) 11:33時点における版

 
滝川雄利
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文12年(1543年
死没 慶長15年2月26日1610年3月21日
改名 源浄院主玄(法名) → 滝川友足(初名) → 一盛、雅利 → 勝雅 → 雄利 → 羽柴雄利 → 刑部卿法印一路
別名 勝雅、雄親、友足(友忠)、一盛、雅利
通称:三郎兵衛、兵部少輔、羽柴下総守、刑部卿法印
法名:主玄、一路
戒名 桂徳院殿三英周傑大居士
墓所 泰寧寺(茨城県石岡市根小屋)
官位 従五位下、下総
幕府 江戸幕府
主君 木造具政織田信雄豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
常陸片野藩
氏族 滝川氏木造氏) → 羽柴氏
父母 [説1]父:柘植三郎兵衛、母:木造具康の娘
[説2]父:柘植三郎兵衛、母:木造俊茂の娘
[説3]父:木造具康、母:某氏
[説4]父:木造具政、母:木造俊茂の娘
[説5]父:木造俊茂、母:某氏
養父(または猶父):滝川一益
兄弟 [説3]木造具次
[説4]木造長政、木造長雄
[説5]木造具康
正室:滝川一益の娘
正利、龍光院
養女:生駒家長の娘鳥居忠政正室)
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滝川 雄利(たきがわ かつとし)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名伊勢神戸城主、のち常陸片野藩初代藩主。

出自

伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。『寛永諸家系図伝』の木造氏系図[1]では具康の娘、星合氏系図[2]では俊茂の娘と北畠氏家臣・柘植三郎兵衛の間の子とし、滝川氏系図[3]では具康の子とする。また、『寛政重修諸家譜』の編纂時に滝川家が提出した家譜では、雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた[4]。さらに、『系図纂要』では俊茂の子になっている[5]

はじめ出家して源浄院の僧・主玄を称し、のちに還俗して滝川一益から滝川の苗字を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。一益との関係は、娘婿に迎えられた[6]ともいい、養子とされた可能性も指摘される[7]。一益没落の後も、豊臣政権下で重用され、従五位下下総守に叙任、羽柴氏を賜姓された。江戸幕府に仕えた晩年まで羽柴下総守と称し、滝川に復姓したのは子息正利の代である[8]

生涯

天文12年(1543年)伊勢国一志郡木造生まれ。若くして出家し源浄院主玄と名乗った。

永禄12年(1569年)、織田信長北畠家攻略戦の時に、信長の家臣滝川一益調略を受け、柘植保重と共に当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きしてその勝利に貢献した[10]。このとき、一益は源浄院の才能を見出して家中に引き取り[9]、還俗させて滝川姓を与え、自身の甥として織田信長に仕えさせた[4]。はじめ通称は兵部少輔[9]は自署によれば友足(ともたり[11])で、のち別名として伝わる一盛(かずもり)、雅利(まさとし)に改めたと思われる[7]

信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(のち信意、織田信雄に改名)の家老となり、通称を三郎兵衛に改める[10]天正4年(1576年11月25日、長野左京亮・軽野左京進と共に軍勢を率い、北畠具教の居城・三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした。(三瀬の変) 『勢州軍記』によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという[9]

天正6年(1578年)、信意の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修繕するが伊賀の国侍衆の反撃に遭い伊勢国へ敗走した。(第一次天正伊賀の乱) 『伊乱記』によると、この時比自岐(ひじき)あたりで合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ伊賀衆に攻めあぐねさせ、ついに夜間のうちに抜け出して無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という[12]

天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱の際には主力とともに近江側から侵攻する信意に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った[14]。雄利は伊賀衆を調略して結束力を弱めて勝利に貢献し、伊賀国中3郡を得た信意によって伊賀国守護に任命された[15]。雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き伊賀国を支配した。

天正10年(1582年)、本能寺の変後に伊勢で蜂起した北畠具親が伊賀に落ちのびて伊賀国一揆の再起をはかった際には、「大剛之者也」と評される活躍ぶりでこれを鎮圧した[17]。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると重ねて偏諱の授与を受けて[18]雄利(かつとし)[19]と改名した。

天正12年(1584年)、信雄が羽柴秀吉に通じたとして津川義冬ら3家老を殺し、小牧・長久手の戦いを起こすと、雄利も秀吉の誘いを受けたが拒絶した[7]。雄利は信雄によって津川の居城であった松ヶ島城日置大膳亮と共に入れられ、徳川家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し40日にわたって篭城した。奮戦及ばずに開城して尾張に退いたのちも、北伊勢の浜田城に入って再び篭城した[9]。信雄が和睦を決意すると義父(岳父)の一益を通じて秀吉に接近、単独講和を実現させ、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣された[20]

豊臣秀吉の下では羽柴姓を賜り[21]、信雄重臣として北伊勢の運営を任された[9]

天正13年(1585年)の『織田信雄分限帳』では3万8370貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている[7]。翌天正14年には秀吉の意を受けて家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した[4]。その後は九州平定に参加し、戦後に石田三成長束正家小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。

天正18年(1590年)、小田原征伐にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している[23]。7月13日、伊勢神戸城2万石を領し、織田信雄改易の後もそのまま領国を安堵されて秀吉直臣となり、秀吉の御伽衆に加えられた。

文禄の役では肥前名護屋城に参陣した。文禄3年(1594年)には伏見城普請に加わって7,000石、文禄4年(1595年)には、さらに伊勢員弁郡5,000石を加増された[7]。同年、秀次事件にも連座したが、叱責されただけで特に処罰は受けずに済んでいる。

慶長3年(1598年)の秀吉の死に際して遺物金15両を拝領した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、軍勢400名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城・神戸城に籠城した。このため戦後に改易された。後に徳川家康に召し出されて常陸国片野2万石の所領を与えられ、再び出家して刑部卿法印一路と号し、徳川秀忠の御伽衆となった[20]

慶長10年(1605年)、この年に亡くなった娘を悼み、京都金戒光明寺塔頭龍光院を建立した。

慶長15年(1610年)、死去。片野藩2万石は子の滝川正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永2年(1625年)に所領を幕府に返上して片野藩は2代で終わった[8]

なお、滝川家の名跡は正利の娘婿滝川利貞が継承し、子孫は4,000石の旗本として幕末まで続いた。また、幕末の大目付滝川具挙はその分家1,200石の当主[24]で、その次男の海軍少将滝川具和を通じて子孫は明治以降も存続している。

脚注

  1. ^ 『寛永諸家系図伝』第13, 続群書類従完成会, 1990, p. 212.
  2. ^ 『寛永諸家系図伝』第13, 続群書類従完成会, 1990, p. 236.
  3. ^ 『寛永諸家系図伝』第12, 続群書類従完成会, 1988, p. 224.
  4. ^ a b c d 『寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書, 1923, p. 424.
  5. ^ 『系図纂要』第9冊上, 名著出版, 1991, p. 164.
  6. ^ 阿部猛, 西村圭子編『戦国人名事典』新人物往来社, 1987, p. 476.
  7. ^ a b c d e 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』第2版, 吉川弘文館, 2010, pp. 265-266.
  8. ^ a b 「大猷院殿御実紀」巻21. 寛永2年11月7日条(『徳川実紀. 第貳編』経済雑誌社, 1904, p. 271.
  9. ^ a b c d e f 「勢州軍記」上・下『続群書類従』第21輯上, 続群書類従完成会, 1930, pp. 1-72.
  10. ^ a b 勢州軍記』による[9]
  11. ^ または友忠(ともただ)とも読まれる。
  12. ^ 『伊乱記』摘翠書院, 1897. 巻2, 3丁裏-4丁表
  13. ^ 桑田忠親校注『信長公記』新訂, 新人物往来社, 1997, p. 339.
  14. ^ 信長公記』による[13]
  15. ^ 『諸国廃城考』
  16. ^ 「新加別記類第62 勢州兵乱記」『史籍集覧』第25冊, 1902, p.595.
  17. ^ 『勢州兵乱記』[16]
  18. ^ 小和田哲男「滝川雄利」『朝日日本歴史人物事典』コトバンク
  19. ^ または雄親(かつちか)。
  20. ^ a b 『寛政重修諸家譜』[4]
  21. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会, 2000.
  22. ^ 「小田原御陣」『戦国史料叢書』第1, 人物往来社, 1965, p. 144.
  23. ^ 『天正記』「小田原御陣」[22]
  24. ^ 小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻, 東洋書林, 1997, p. 1611.

参考文献

関連項目