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2021年5月29日 (土) 11:41時点における版
弁正(べんせい、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての僧。秦牛万呂の子とする系図がある。
明皇会棋図の中の弁生と思われる人物(左)
経歴
大宝2年(702年)留学僧として第8次遣唐使に加わり入唐。唐では、囲碁を能くするとして、まだ皇子であった李隆基(のちの玄宗)によってたびたび賞遇された。その後、還俗し、唐人の女性と婚姻したと想定され、息子の秦朝慶と秦朝元を儲けている。秦朝元は養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国に従って訪日したが、弁正と秦朝慶は唐の地で没した。
『懐風藻』に弁正による漢詩が残っている。また、故宮博物館に収蔵されている『明皇会棋図』は李隆基と弁正の対局をテーマにした作品であるという説がある。
系譜
脚注
- ^ 鈴木真年『百家系図』巻50,朝原忌寸,時原宿禰
参考文献
- 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年