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2021年5月29日 (土) 11:43時点における版
中根 東里(なかね とうり、元禄7年(1694年) - 明和2年2月7日(1765年3月27日))は、江戸時代中期の儒学者。名は若思、字は敬夫、通称は貞右衛門[1]。
伊豆国下田村(現静岡県下田市)生まれ。父は三河国出身の農民で医師を兼ねていた重勝(しげかつ)[2]。13歳のとき父が死去し、母の勧めで出家して地元の禅宗の僧となった。のちに山城国宇治(現京都府宇治市)の黄檗山萬福寺に赴いて中国語を学び[3]、次いで江戸駒込の浄土宗蓮光寺に移り読書に励んだ。19歳で荻生徂徠に入門、のち還俗した。徂徠学に疑いを抱くようになり、朱子学に傾斜して、享保元年(1716年)23歳で加賀国金沢(現石川県金沢市)の室鳩巣に師事した。それでも満足できず、さらにのち陽明学に転じた[4]。享保20年(1735年)、弟子である下野国植野村(現栃木県佐野市植野町付近)の医師金束信甫に招かれ、信甫の家の泥月庵(のち知松庵)で塾を開き[5]、20年余りにわたって陽明学や『伝習録』をわかりやすく講じた[3]。宝暦12年(1762年)、母と姉の住む相模国浦賀村(現神奈川県横須賀市)に移り、明和2年(1765年)2月7日死去、村内の日蓮宗東耀山顕正寺に葬られた[2]。著書に『学則』『新瓦(しんが)』『東里遺稿』などがある[2]。
脚注
外部リンク
- 中根東里の経歴(『下田の栞』による) - ウェイバックマシン(2016年5月31日アーカイブ分)