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{{Infobox 学者|生年月日=<!--{{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}}-->|name=エルンスト・ハルトヴィヒ・カントロヴィチ|image=|caption=|birth_name=|birth_date={{birth date|1895|5|3}}|birth_place={{DEU1871}}<br/>{{PRU}} [[ポズナン|ポーゼン]]|death_date={{death date and age|1963|9|9|1895|5|3}}|death_place={{USA}} [[ニュージャージー州]][[プリンストン (ニュージャージー州)|プリンストン]]|nationality={{DEU}}、{{USA}}|alma_mater=[[ハイデルベルク大学]]|school_tradition=[[ゲオルゲ・クライス]] (1933年以前)|main_interests=[[中世史]]<br />[[政治神学]]|workplaces=[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト大学]]<br />[[カリフォルニア大学バークレー校]]<br />[[プリンストン高等研究所]]|doctoral_advisor=[[エーベルハルト・ゴータイン]]|notable_ideas=|influences=|influenced={{hlist|[[ジョルジョ・アガンベン|アガンベン]]<ref>{{cite book|last=Choudhury|first=Soumyabrata|year=2011|chapter=Why the People To Come Will Not, and Must Not, Be Sovereign: Notes on a Political and Mathematical Puzzle|editor-last=Bradley|editor-first=Arthur|editor-last2=Fletcher|editor-first2=Paul|title=The Messianic Now: Philosophy, Religion, Culture|place=Abingdon|publisher=Routledge|p=177}}</ref>|[[ミシェル・フーコー|フーコー]]<ref>{{cite book|last=Merquior|first=J. G.|author-link=J. G. Merquior|year=1985|title=Foucault|place=Berkeley|publisher=University of California Press|page=88}}</ref>|[[フランツ・レオポルド・ノイマン|ノイマン]]<ref>{{cite book|last=Monateri|first=Pier Giuseppe|year=2018|title=Dominus Mundi: Political Sublime and the World Order|place=Oxford|publisher=Hart|page=65}}</ref>|[[エズラ・パウンド|パウンド]]<ref>{{cite book|last=Dasenbrock|first=Reed Way|year=1991|title=Imitating the Italians: Wyatt, Spenser, Synge, Pound, Joyce|place=Baltimore|publisher=Johns Hopkins University Press|page=250}}</ref>|[[スラヴォイ・ジジェク|ジジェク]]<ref>{{cite book|last=Bratsis|first=Peter|year=2016|title=Everyday Life and the State|place=Abingdon|publisher=Routledge|page=33}}</ref>}}|signature=|signature size=|footnotes=}}'''エルンスト・ハルトヴィヒ・カントロヴィチ''' ([[ドイツ語]]: Ernst Hartwig Kantorowicz {{IPA-de|kanˈtoːrovɪt&#860;s|}}<ref>Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7</ref>、[[1895年]][[5月3日]] – [[1963年]][[9月9日]]) は、ドイツ出身でアメリカに渡った歴史家。中世政治史・思想史・芸術史を研究し、[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]を論じた『{{仮リンク|皇帝フリードリヒ二世|en|Frederick the Second}}』(1927年)や、中世・近世の君主制論・国家論を取り上げた『[[王の二つの身体]]』(1957年)などの著作で知られる<ref>Norman F. Cantor, ''Inventing the Middle Ages,'' (1991) pp. 79-117.</ref>。日本語文献では'''カントーロヴィチ'''、'''カントロヴィッチ'''、'''カントロヴィッツ'''などとも表記される。
'''エルンスト・カントロヴィチ'''('''カントロヴィッチ'''も表記、Ernst Hartwig Kantorowicz, [[1895年]][[5月3日]] - [[1963年]][[9月9日]])は、[[ドイツ]]および[[アメリカ合衆国]]の[[歴史学者]]。ヨーロッパ中世政治思想史を専攻。


== 生涯 ==
[[ドイツ帝国]]のポーゼン(現在の[[ポーランド]]・[[ポズナン]])生まれ。[[第一次世界大戦]]でドイツ軍の兵士として従軍したあと、[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]、[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]、[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]で学ぶ。
=== 前半生 ===
カントロヴィチは[[ドイツ帝国]]・[[プロイセン王国]]領ポーゼン(現[[ポーランド]]領[[ポズナン]])の、裕福なユダヤ系ドイツ人の家に生まれた。幼少期は家業である醸造業を継ぐべくして育てられ、[[第一次世界大戦]]では[[ドイツ帝国陸軍]]の士官として4年間従軍した。戦後、彼は経済学を学ぶため[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]の入学資格を得る一方で、一時は右派民兵組織[[ドイツ義勇軍]]に参加し、{{仮リンク|ヴィエルコポルスカ蜂起 (1918年–1919年)|en|Greater Poland uprising (1918–1919)|label=ヴィエルコポルスカ蜂起}}でポーランド軍と戦ったり、ベルリンで[[スパルタクス団蜂起]]の鎮圧に参加したりした<ref>{{Cite book|last=Friedländer, Saul|title=Den Holocaust beschreiben|year=2007|language=de|page=78|isbn=9783835301856}}</ref>。翌年、カントロヴィチは一時[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]に移ったが、ここでも左派と新政府の民兵組織同士の衝突に身を投じた。結局は間もなく[[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に身を落ち着け、経済学の道を歩みつつ、アラビア語、イスラーム学、歴史学、地理学と幅広い分野に興味を向けていった<ref>{{Cite book|last=Lerner|first=Robert E.|author-link=Robert E. Lerner|title=Ernst Kantorowicz: A Life|year=2017|page=59|doi=10.2307/j.ctt21c4v3z|jstor=j.ctt21c4v3z|isbn=9781400882922|oclc=1080549540}}</ref>。


ハイデルベルクにおいて、カントロヴィチは[[象徴主義]]詩人・[[唯美主義]]者として知られる[[シュテファン・ゲオルゲ]]を中心とした芸術家・知識人サークルである{{仮リンク|ゲオルゲ・クライス|en|George-Kreis|label=}}に参加していた。カントロヴィチは、ゲオルゲの詩と哲学が、戦後ドイツにおけるナショナリスト精神の偉大なる復興の礎になると信じていた<ref>{{Cite book|last=Goldsmith, Ulrich|title=Stefan George: A Study of his Early Work|year=1959|publisher=Columbia University Press|location=New York}}</ref>。1921年、カントロヴィチはムスリム世界の「職人組合」に関する短い学位論文により、{{仮リンク|エーベルハルト・ゴータイン|en|Eberhard Gothein|label=}}の指導のもとで博士号を取った<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=62}}.</ref>。
[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト大学]]教授となるが、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の迫害を逃れ、[[イギリス]]を経て、最終的に[[1938年]]、[[アメリカ合衆国]]に亡命。[[カリフォルニア大学バークレー校]]や[[プリンストン高等研究所]]で教える。


=== 『皇帝フリードリヒ二世』 ===
== 日本語文献 ==
イスラム経済史で学位を取ったカントロヴィチであったが、その関心は中世ヨーロッパ、とくに王権論に移っていった。彼は文化的に保守的なエリートであるゲオルゲ・クライスの影響を受け、旧来の見方を押し流す極めて異端的な著作『{{仮リンク|皇帝フリードリヒ二世|en|Frederick the Second}}』を書きあげた。この[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の伝記は、1927年にドイツ語で、1931年に英語で刊行された。フリードリヒ2世治下の典型的な法制、制度、政治的・軍事的事績を調べるのではなく、彼を詩的な調子で激賞し、悲劇の英雄として、また「ローマ・ゲルマン人」として描いたのである<ref>{{Cite book|last=Abulafia|first=David|year=1997|chapter=Kantorowicz, Frederick II and England|editor-last=Benson|editor-first=Robert L.|title=Ernst Kantorowicz|publisher=Franz Steiner Verlag|location=Stuttgart|pages=125|isbn=978-3515069595}}</ref><ref>{{Harvnb|Lerner|2017|pp=105, 115}}.</ref>。
;著作

この本には[[脚注]]がなく、歴史的事件の記述を省いては空想的な伝説やプロパガンダ的な叙述に置き換えているように見える。歴史学会の主流派からは、当惑と批判の声が上がった。批評家たちは、文字通りの神話創作の類であり、真面目な歴史学の作品ではないと酷評した。これに対しカントロヴィチは、1931年に詳細な歴史史料で伝記を固めなおした重厚な姉妹編 (''Ergänzungsband'') を出版することで応えた<ref>{{Cite book|last=Leyser|first=Conrad|year=2016|chapter=Introduction to the Princeton Classics Edition|title=The King's Two Bodies: A Study in Mediaeval Political Theology|publisher=Princeton University Press|location=Princeton, NJ|pages=x–xi|isbn=978-0691169231}}</ref>。

=== フランクフルト時代 ===
フリードリヒ2世の伝記で批判の嵐にあい、また正式な{{仮リンク|教授資格 (欧米)|en|Habilitation|label=教授資格}}を持っていなかった(これを得るためにはもう一つ論文を出す必要があった)にもかかわらず、カントロヴィチは[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト大学]]の(名誉)教授職を与えられた。ただ彼は1931年まではベルリンにとどまっていた<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=146}}.</ref>。1933年12月、カントロヴィチは大学での授業を止めざるを得なくなった。新たに政権を取ったナチ党によるユダヤ人学者への圧力が強まったためだったが、実のところ彼は直前の11月14日に「隠されたドイツ」(これはゲオルゲ・クライスのモットーでもあった)と題した講演を行い、自分の立場を新政権側に位置付けていた<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=168}}.</ref>。何度か休職を繰り返した末、1935年に年金付きで早期退職を認められた<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=187}}.</ref>。その後も彼はドイツにとどまっていたが、1938年に[[水晶の夜]]事件が勃発し、自分のようなドイツ化したユダヤ人も迫害を避けえないことが明らかになると、アメリカへ亡命した<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=201}}.</ref>。

=== バークレーからプリンストンへ ===
1939年、カントロヴィチは[[カリフォルニア大学バークレー校]]の講師職を得た<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=221}}.</ref>。数年後には常任教授の地位を得たが、[[赤狩り]]が吹き荒れる1950年に大学評議会が政治的破壊運動への参加を否定するよう全教職員に{{仮リンク|忠誠宣誓 (代表的なトピック)<!--「忠誠宣誓」は現在曖昧さ回避のため暫定的に括弧を設定-->|en|Loyalty oath|label=忠誠宣誓}}を要求してきた際、カントロヴィチは抗議の意を示すため辞職した。彼は自身が学生時代から左派運動に身を投じたことがなく、むしろ反共産主義民兵組織に身を置いていたことを強く主張したうえで、それでもなおこの忠誠宣誓要求はあからさまな学問の自由と良心の自由の侵害であるとして反発したのであった<ref>{{Cite web|url=https://www.lib.berkeley.edu/uchistory/archives_exhibits/loyaltyoath/symposium/kantorowicz.html|author=Ernst H. Kantorowicz|title=The Fundamental Issue: Documents and Marginal Notes on the University of California Loyalty Oath|publisher=Parker Printing Co.|year=1950|accessdate=2021-6-8}}</ref>。

この論争のさなか、著名な亡命ドイツ人の中世史家であるテオドール・モムゼン(同名の古代史家[[テオドール・モムゼン]]の孫)と[[エルヴィン・パノフスキー]]が、自分たちの所属する高名な[[プリンストン高等研究所]]の歴史学部門でカントロヴィチに教授職を与えるよう、所長[[ロバート・オッペンハイマー]]に掛け合った<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=330}}.</ref>。この結果、カントロヴィチは1951年1月にプリンストンの教授職を得て移住し、以後ここで研究生活を送った<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=333}}.</ref>。

=== 『王の二つの身体』 ===
1957年、カントロヴィチは傑作と名高い『[[王の二つの身体]]』を出版した。これは副題を借りれば「中世{{仮リンク|政治神学|en|Political theology|label=}}」の研究書である。いかに中世・近世の神学者、歴史家、教会法学者が「王」を理解していたのか、すなわち寿命がある「自然的身体」と、時代をこえた組織・機関としての「政治的身体」を論じるのが主題であった<ref>{{Harvnb|Leyser|2016|pp=xix–xx}}.</ref>。[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]や[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]をはじめ、様々な方向から文字・視覚史料を並べあげ<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|pp=355, 350, 352}}.</ref>、後の歴史学者や政治学者が、前近代ヨーロッパにおける一個人の権威・カリスマから個人を超越した国家概念に至るまでを理解するうえで多大な貢献を残した<ref>{{Harvnb|Leyser|2016|pp=ix–x}}.</ref>。『王の二つの身体』は、この分野では古典的名著であり続けている<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=357}}.</ref>。

=== 死去 ===
1963年、カントロヴィチはプリンストンの自宅で、[[大動脈瘤]]により68歳で死去した<ref>{{Harvnb|Lerner|2017|pp=376, 385}}.</ref>。

== 評価 ==
=== カンター論争 ===
アメリカの中世史家{{仮リンク|ノーマン・カンター|en|Norman Cantor|label=}}は、自著''Inventing the Middle Ages'' (1991)において、若き日のカントロヴィチはユダヤ人の出自を持ちながら、その知的気質や文化意識からしてナチであったと考えられる、と評した。カンターは、同時代に似た分野に携わったドイツ人中世史家で、ナチ党に入党し戦争中に国防軍最高司令部の日誌係として勤務していた{{仮リンク|Percy Ernst Schramm|en|Percy Ernst Schramm|label=}}を挙げて、カントロヴィチと比較した。さらにカンターは[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル期]]のカントロヴィチがエリート主義的ナショナリズムに傾倒していたことから、彼がナチ政府の保護下にあったという誤った主張を展開した<ref name="NYRBletter">[http://www.nybooks.com/articles/archives/1992/aug/13/defending-kantorowicz/ ''"Defending Kantorowicz,"''] Letter to the ''New York Review of Books'' by Robert L. Benson, Ralph E. Giesey and Margaret Sevcenko and response by Robert Bartlett, Aug. 13, 1992.</ref><ref name="LipkinKantorowicz" />。

これに対し、カントロヴィチの直弟子でもあるロバート・L・ベンソン<ref name="NYRBletter">[http://www.nybooks.com/articles/archives/1992/aug/13/defending-kantorowicz/ ''"Defending Kantorowicz,"''] Letter to the ''New York Review of Books'' by Robert L. Benson, Ralph E. Giesey and Margaret Sevcenko and response by Robert Bartlett, Aug. 13, 1992.</ref>ら擁護派は、若きカントロヴィチがゲオルゲ・クライスのロマン主義的ウルトラナショナリズムを受容していた一方で、ナチ党に対しては戦前も戦後もただ軽蔑するだけであり、ヒトラー政権に対しては批判の声を上げていたと反論した<ref name="LipkinKantorowicz">{{Cite news|last=Lipkin, Michael|title=When Emperors Are No More|url=https://www.theparisreview.org/blog/2016/06/15/when-emperors-are-no-more/|accessdate=20 December 2019|newspaper=[[The Paris Review]]|date=15 June 2016}}</ref>。また他の観点からカントロヴィチを批判している{{仮リンク|デイヴィッド・アブラフィア|en|David Abulafia|label=}}や{{仮リンク|ロバート・E・ラーナー|en|Robert E. Lerner|label=}}も、カンターの説を否定している<ref>{{Cite book|last=Abulafia|first=David|year=1997|chapter=Kantorowicz, Frederick II and England|editor-last=Benson|editor-first=Robert L.|title=Ernst Kantorowicz|publisher=Franz Steiner Verlag|location=Stuttgart|pages=125–26|isbn=978-3515069595}}</ref><ref>{{Harvnb|Lerner|2017|p=185}}.</ref>。コンラッド・レーザーは、2016年に『王の二つの身体』の前書きとしてこの論争をまとめたうえで、カンターの言説は「虚偽と半端な真実のないまぜ」であるとしつつ、カントロヴィチ自身がドイツ時代を抑制しようとしたことに対する予測可能な反応であったと評した<ref>{{Harvnb|Leyser|2016|p=xiv}}.</ref>。同2016年にはマイケル・リプキンも、カンターの言説は『皇帝フリードリヒ2世』の右派的傾向を指摘している点などでは正しいが、「持論を揉みしだいたせいで無意味なものにしている」と批判した。

== 著作 ==
=== ドイツ語 ===
* ''Kaiser Friedrich der Zweite,'' Georg Bondi, 1927.
* ''Das Geheime Deutschland,'' Vorlesung, 1933.

=== 英語 ===
* ''Frederick II.: 1194–1250'' (1931) ([https://archive.org/stream/fredericktheseco000027mbp#page/n5 online] at [[インターネットアーカイブ|Archive.org]])
* "A Norman Finale of the Exultet and the Rite of Sarum", ''The Harvard Theological Review'', '''34''' (2), (1941). {{Doi|10.1017/S0017816000031485}}. {{JSTOR|1508128}}. {{ISSN|0017-8160}}.
* "Plato in the Middle Ages", ''The Philosophical Review'', '''51''' (3), (1942). {{Doi|10.2307/2180909}}. {{JSTOR|2180909}}.
* ''Laudes Regiae: A Study in Liturgical Acclamations and Mediaeval Ruler Worship'', University of California Press, (1946). {{Doi|10.1086/ahr/51.4.702}}.
* "The Quinity of Winchester", ''Art Bulletin'', Vol. XXIV, (1947). {{Doi|10.2307/3047110}}. {{JSTOR|3047110}}.
* ''The Fundamental Issue: Documents and Marginal Notes on the University of California Loyalty Oath'', Parker Print. Co., 1950. {{OCLC|1182841}}[[OCLC (identifier)|OCLC]]&nbsp;[https://www.worldcat.org/oclc/1182841 1182841].
* "Dante's 'Two Suns'", in ''Semitic and Oriental Studies,'' 1951.
* "Pro Patria Mori in Medieval Political Thought", ''The American Historical Review'', '''56''' (3), (1951). {{Doi|10.2307/1848433}}. {{JSTOR|1848433}}.
* ''"''Inalienability: A Note on Canonical Practice and the English Coronation Oath in the Thirteenth Century", ''Speculum'', Vol. XXIX, 1954. {{JSTOR|2846791}}.
* "Mysteries of State: An Absolutist Concept and its Late Medieval Origins", ''Harvard Theological Review'', Vol. XLVIII, 1955. {{Doi|10.2307/2846791}}. {{JSTOR|1508452}}.
* ''The King's Two Bodies: A Study in Mediaeval Political Theology'', Princeton University Press, (1957). {{Doi|10.2307/j.ctvcszz1c}}. {{ISBN2|0691017042}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/0691017042|0691017042]]. {{JSTOR|j.ctvcszz1c}}.
* [https://archive.org/stream/fredericktheseco000027mbp#page/n7/mode/2up ''Frederick the Second, 1194–1250''], Frederick Ungar Publishing Co., 1957. {{ISBN2|1548217115}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/1548217115|1548217115]].
* "The Prologue to Fleta and the School of Petrus de Vinea," ''Speculum'', '''32''' (2), 1957. {{Doi|10.2307/2849115}}. {{JSTOR|2849115}}.
* ''"On the Golden Marriage Belt and the Marriage Rings of the Dumbarton Oaks Collection"'', Dumbarton Oaks Papers, '''14''', 1960. {{Doi|10.2307/1291142}}. {{JSTOR|1291142}}.
* ''"The Archer in the Ruthwell Cross"'', The Art Bulletin, '''42''' (1), 1960. {{Doi|10.2307/3047875}}. {{JSTOR|3047875}}.
* ''Gods in Uniform'', Proceedings of the American Philosophical Society, Vol. CV, 1961. {{OCLC|84680316}}[[OCLC (identifier)|OCLC]]&nbsp;[https://www.worldcat.org/oclc/84680316 84680316].
* ''"Puer Exoriens: On the Hypapante in the Mosaics of S. Maria Maggiore,"'' Perennitas, 1963.
* ''Selected Studies'', J.J. Augustin, 1965. {{OCLC|1600443}}[[OCLC (identifier)|OCLC]]&nbsp;[https://www.worldcat.org/oclc/1600443 1600443].

=== 日本語 ===
* ''Frederick the Second, 1194-1250'', (Constable, 1931).
* ''Frederick the Second, 1194-1250'', (Constable, 1931).
**『[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝フリードリヒ二世]]』 [[小林公]]訳、[[中央公論新社]]、2011年。カントーロヴィチ表記
**『[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|皇帝フリードリヒ二世]]』 [[小林公]]訳、[[中央公論新社]]、2011年。カントーロヴィチ表記
* ''The King's Two Bodies: A Study in Mediaeval Political Theology'', (Princeton University Press, 1957).
* ''The King's Two Bodies: A Study in Mediaeval Political Theology'', (Princeton University Press, 1957).
**『[[王の二つの身体|王の二つの身体――中世政治神学研究]]』 小林公訳、[[平凡社]]、1992年。カントーロヴィチ表記
** 『[[王の二つの身体|王の二つの身体――中世政治神学研究]]』 小林公訳、[[平凡社]]、1992年。カントーロヴィチ表記
*** [[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉上・下、2003年
*** [[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉上・下、2003年
* ''Selected Studies'', (J. J. Augustin, 1965).
* ''Selected Studies'', (J. J. Augustin, 1965).
**『祖国のために死ぬこと』 [[甚野尚志]]訳、[[みすず書房]]、1993年、新装版2006年。以下の論考6篇を収録
** 『祖国のために死ぬこと』 [[甚野尚志]]訳、[[みすず書房]]、1993年、新装版2006年。以下の論考6篇を収録
::中世政治思想における「祖国のために死ぬこと」 / 国家の神秘 / 「キリスト」と「国庫」
:: 中世政治思想における「祖国のために死ぬこと」 / 国家の神秘 / 「キリスト」と「国庫」
::法学の影響下での王権 / ダンテの「ふたつの太陽」 / 芸術家の主権
:: 法学の影響下での王権 / ダンテの「ふたつの太陽」 / 芸術家の主権

== 脚注 ==
{{reflist|2}}

== 参考文献 ==
* Abulafia, David. "Kantorowicz and Frederick II." ''History'' '''62'''(205) (1977): 193–210. {{JSTOR|24411237}}.
* Boureau, Alain. ''Kantorowicz: Stories of a Historian'' The Johns Hopkins University Press, 2001. {{ISBN2|9780801866234}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/9780801866234|9780801866234]].
* Cantor, Norman F. (1st) ''Inventing the Middle Ages'', 1991. pp 79–117. negative view of Kantorowicz. {{ISBN2|0688123023}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/0688123023|0688123023]].
* Daum, Andreas, Hartmut Lehmann, James Sheehan (eds.), ''The Second Generation: Émigrés from Nazi Germany as Historians. With a Biobibliographic Guide''. New York: Berghahn Books, 2016, {{ISBN2|978-1-78238-985-9}}.
* Franke, Norman, "‘Divina Commedia teutsch’? Ernst H. Kantorowicz: Der Historiker als Politiker." In: ''Historische Zeitschrift'' (291, 2/2010), pp. 297–330 (German)
* Franke, Norman, ’Honour and Shame’. Karl Wolfskehl and the v. Stauffenberg Brothers: Political Eschatology in Stefan George's Circle. In: Simms, Norman (ed.): ''Letters and Texts of Jewish History''. Hamilton 1998, pp. 89–120
* Free, John B. "Ernst Kantorowicz. An Accounting", ''Central European History'', '''32'''(2), (1999). {{JSTOR|4546870}}.
* Landauer, Carl. "Ernst Kantorowicz and the Sacralization of the Past", ''Central European History'', Vol. 27(1), (1994). {{JSTOR|4546389}}.
* Lerner, Robert. ''Ernst Kantorowicz: A Life''. Princeton University Press, 2016. {{ISBN2|069117282X}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/069117282X|069117282X]].
** ''Medieval Scholarship Biographical Studies on the Formation of a Discipline: History'', Vol. I, ed. Helen Damico & Joseph B Zavadil, 1995; biographical essays for ''"Ernst H. Kantorowicz"'' by Robert E. Lerner and ''"Percy Ernst Schramm"'' by Janos Bak, both of whom respond to allegations in Cantor's book. {{ISBN2|9780824068943}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/9780824068943|9780824068943]].
* Peters, Edward. "More Trouble With Henry: The Historiography of Medieval Germany in the Angloliterate World, 1888–1995." ''Central European History'' 28, no. 1 (1995): 47–72. {{Doi|10.1017/S0008938900011249}}. {{ISSN|0008-9389}}[[ISSN (identifier)|ISSN]]&nbsp;[https://www.worldcat.org/search?fq=x0:jrnl&q=n2:0008-9389 0008-9389].
* Rust, Jennifer R. "Political Theologies of the ''Corpus Mysticum'': Schmitt, Kantorowicz, and de Lubac" (on ''The King's Two Bodies'') in ''Political Theology and Early Modernity'' (University of Chicago Press, 2012): 102–123. {{Doi|10.7208/chicago/9780226314990.001.0001}}. {{ISBN2|9780226314976}}[[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/9780226314976|9780226314976]].
* アラン・ブーロー『カントロヴィッチ ある歴史家の物語』 藤田朋久訳、みすず書房、1993年


== 関連項目 ==
;評伝
* {{仮リンク|ハロルド・F・チャーニス|en|Harold F. Cherniss|label=}}: 古代哲学史家。カントロヴィチの友人・同僚であり、彼がバークレーを追われた後に職を得るのを助けた。
*アラン・ブーロー『カントロヴィッチ ある歴史家の物語』 藤田朋久訳、みすず書房、1993年
* {{仮リンク|カーラー・クライス|en|Kahler-Kreis|label=}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.ingentaconnect.com/content/imp/hpt/1997/00000018/00000004/117 IngentaConnect Ernst H.Kantorowicz: history as Mythenschau]
* [http://www.ingentaconnect.com/content/imp/hpt/1997/00000018/00000004/117 IngentaConnect Ernst H.Kantorowicz: history as Mythenschau]
* [http://www.keine-pause.de/Uber___/Kantorowicz/kantorowicz.html Kantorowicz]
* [http://www.keine-pause.de/Uber___/Kantorowicz/kantorowicz.html Kantorowicz]
* [https://web.archive.org/web/20120204234851/http://www.historicum.net/themen/klassiker-der-geschichtswissenschaft/20-jahrhundert/art/Kantorowicz_Er/html/artikel/2245/ca/2d2877a002/ Short biography and quotes from Ernst Kantorowicz]
* [http://findingaids.cjh.org/?pID=256596 Guide to the Ernst Kantorowicz Collection] at the Leo Baeck Institute, New York.


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エルンスト・ハルトヴィヒ・カントロヴィチ
人物情報
生誕 (1895-05-03) 1895年5月3日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国 ポーゼン
死没 1963年9月9日(1963-09-09)(68歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニュージャージー州プリンストン
国籍 ドイツの旗 ドイツアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身校 ハイデルベルク大学
学問
学派 ゲオルゲ・クライス (1933年以前)
研究分野 中世史
政治神学
研究機関 フランクフルト大学
カリフォルニア大学バークレー校
プリンストン高等研究所
博士課程指導教員 エーベルハルト・ゴータイン
影響を与えた人物
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エルンスト・ハルトヴィヒ・カントロヴィチ (ドイツ語: Ernst Hartwig Kantorowicz [kanˈtoːrovɪt͜s][6]1895年5月3日1963年9月9日) は、ドイツ出身でアメリカに渡った歴史家。中世政治史・思想史・芸術史を研究し、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世を論じた『皇帝フリードリヒ二世英語版』(1927年)や、中世・近世の君主制論・国家論を取り上げた『王の二つの身体』(1957年)などの著作で知られる[7]。日本語文献ではカントーロヴィチカントロヴィッチカントロヴィッツなどとも表記される。

生涯

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前半生

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カントロヴィチはドイツ帝国プロイセン王国領ポーゼン(現ポーランドポズナン)の、裕福なユダヤ系ドイツ人の家に生まれた。幼少期は家業である醸造業を継ぐべくして育てられ、第一次世界大戦ではドイツ帝国陸軍の士官として4年間従軍した。戦後、彼は経済学を学ぶためベルリン大学の入学資格を得る一方で、一時は右派民兵組織ドイツ義勇軍に参加し、ヴィエルコポルスカ蜂起英語版でポーランド軍と戦ったり、ベルリンでスパルタクス団蜂起の鎮圧に参加したりした[8]。翌年、カントロヴィチは一時ミュンヘン大学に移ったが、ここでも左派と新政府の民兵組織同士の衝突に身を投じた。結局は間もなくハイデルベルク大学に身を落ち着け、経済学の道を歩みつつ、アラビア語、イスラーム学、歴史学、地理学と幅広い分野に興味を向けていった[9]

ハイデルベルクにおいて、カントロヴィチは象徴主義詩人・唯美主義者として知られるシュテファン・ゲオルゲを中心とした芸術家・知識人サークルであるゲオルゲ・クライス英語版に参加していた。カントロヴィチは、ゲオルゲの詩と哲学が、戦後ドイツにおけるナショナリスト精神の偉大なる復興の礎になると信じていた[10]。1921年、カントロヴィチはムスリム世界の「職人組合」に関する短い学位論文により、エーベルハルト・ゴータイン英語版の指導のもとで博士号を取った[11]

『皇帝フリードリヒ二世』

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イスラム経済史で学位を取ったカントロヴィチであったが、その関心は中世ヨーロッパ、とくに王権論に移っていった。彼は文化的に保守的なエリートであるゲオルゲ・クライスの影響を受け、旧来の見方を押し流す極めて異端的な著作『皇帝フリードリヒ二世英語版』を書きあげた。この神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の伝記は、1927年にドイツ語で、1931年に英語で刊行された。フリードリヒ2世治下の典型的な法制、制度、政治的・軍事的事績を調べるのではなく、彼を詩的な調子で激賞し、悲劇の英雄として、また「ローマ・ゲルマン人」として描いたのである[12][13]

この本には脚注がなく、歴史的事件の記述を省いては空想的な伝説やプロパガンダ的な叙述に置き換えているように見える。歴史学会の主流派からは、当惑と批判の声が上がった。批評家たちは、文字通りの神話創作の類であり、真面目な歴史学の作品ではないと酷評した。これに対しカントロヴィチは、1931年に詳細な歴史史料で伝記を固めなおした重厚な姉妹編 (Ergänzungsband) を出版することで応えた[14]

フランクフルト時代

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フリードリヒ2世の伝記で批判の嵐にあい、また正式な教授資格英語版を持っていなかった(これを得るためにはもう一つ論文を出す必要があった)にもかかわらず、カントロヴィチはフランクフルト大学の(名誉)教授職を与えられた。ただ彼は1931年まではベルリンにとどまっていた[15]。1933年12月、カントロヴィチは大学での授業を止めざるを得なくなった。新たに政権を取ったナチ党によるユダヤ人学者への圧力が強まったためだったが、実のところ彼は直前の11月14日に「隠されたドイツ」(これはゲオルゲ・クライスのモットーでもあった)と題した講演を行い、自分の立場を新政権側に位置付けていた[16]。何度か休職を繰り返した末、1935年に年金付きで早期退職を認められた[17]。その後も彼はドイツにとどまっていたが、1938年に水晶の夜事件が勃発し、自分のようなドイツ化したユダヤ人も迫害を避けえないことが明らかになると、アメリカへ亡命した[18]

バークレーからプリンストンへ

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1939年、カントロヴィチはカリフォルニア大学バークレー校の講師職を得た[19]。数年後には常任教授の地位を得たが、赤狩りが吹き荒れる1950年に大学評議会が政治的破壊運動への参加を否定するよう全教職員に忠誠宣誓英語版を要求してきた際、カントロヴィチは抗議の意を示すため辞職した。彼は自身が学生時代から左派運動に身を投じたことがなく、むしろ反共産主義民兵組織に身を置いていたことを強く主張したうえで、それでもなおこの忠誠宣誓要求はあからさまな学問の自由と良心の自由の侵害であるとして反発したのであった[20]

この論争のさなか、著名な亡命ドイツ人の中世史家であるテオドール・モムゼン(同名の古代史家テオドール・モムゼンの孫)とエルヴィン・パノフスキーが、自分たちの所属する高名なプリンストン高等研究所の歴史学部門でカントロヴィチに教授職を与えるよう、所長ロバート・オッペンハイマーに掛け合った[21]。この結果、カントロヴィチは1951年1月にプリンストンの教授職を得て移住し、以後ここで研究生活を送った[22]

『王の二つの身体』

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1957年、カントロヴィチは傑作と名高い『王の二つの身体』を出版した。これは副題を借りれば「中世政治神学英語版」の研究書である。いかに中世・近世の神学者、歴史家、教会法学者が「王」を理解していたのか、すなわち寿命がある「自然的身体」と、時代をこえた組織・機関としての「政治的身体」を論じるのが主題であった[23]シェイクスピアダンテをはじめ、様々な方向から文字・視覚史料を並べあげ[24]、後の歴史学者や政治学者が、前近代ヨーロッパにおける一個人の権威・カリスマから個人を超越した国家概念に至るまでを理解するうえで多大な貢献を残した[25]。『王の二つの身体』は、この分野では古典的名著であり続けている[26]

死去

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1963年、カントロヴィチはプリンストンの自宅で、大動脈瘤により68歳で死去した[27]

評価

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カンター論争

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アメリカの中世史家ノーマン・カンター英語版は、自著Inventing the Middle Ages (1991)において、若き日のカントロヴィチはユダヤ人の出自を持ちながら、その知的気質や文化意識からしてナチであったと考えられる、と評した。カンターは、同時代に似た分野に携わったドイツ人中世史家で、ナチ党に入党し戦争中に国防軍最高司令部の日誌係として勤務していたPercy Ernst Schramm英語版を挙げて、カントロヴィチと比較した。さらにカンターはヴァイマル期のカントロヴィチがエリート主義的ナショナリズムに傾倒していたことから、彼がナチ政府の保護下にあったという誤った主張を展開した[28][29]

これに対し、カントロヴィチの直弟子でもあるロバート・L・ベンソン[28]ら擁護派は、若きカントロヴィチがゲオルゲ・クライスのロマン主義的ウルトラナショナリズムを受容していた一方で、ナチ党に対しては戦前も戦後もただ軽蔑するだけであり、ヒトラー政権に対しては批判の声を上げていたと反論した[29]。また他の観点からカントロヴィチを批判しているデイヴィッド・アブラフィア英語版ロバート・E・ラーナー英語版も、カンターの説を否定している[30][31]。コンラッド・レーザーは、2016年に『王の二つの身体』の前書きとしてこの論争をまとめたうえで、カンターの言説は「虚偽と半端な真実のないまぜ」であるとしつつ、カントロヴィチ自身がドイツ時代を抑制しようとしたことに対する予測可能な反応であったと評した[32]。同2016年にはマイケル・リプキンも、カンターの言説は『皇帝フリードリヒ2世』の右派的傾向を指摘している点などでは正しいが、「持論を揉みしだいたせいで無意味なものにしている」と批判した。

著作

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ドイツ語

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  • Kaiser Friedrich der Zweite, Georg Bondi, 1927.
  • Das Geheime Deutschland, Vorlesung, 1933.

英語

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  • Frederick II.: 1194–1250 (1931) (online at Archive.org)
  • "A Norman Finale of the Exultet and the Rite of Sarum", The Harvard Theological Review, 34 (2), (1941). doi:10.1017/S0017816000031485. JSTOR 1508128. ISSN 0017-8160.
  • "Plato in the Middle Ages", The Philosophical Review, 51 (3), (1942). doi:10.2307/2180909. JSTOR 2180909.
  • Laudes Regiae: A Study in Liturgical Acclamations and Mediaeval Ruler Worship, University of California Press, (1946). doi:10.1086/ahr/51.4.702.
  • "The Quinity of Winchester", Art Bulletin, Vol. XXIV, (1947). doi:10.2307/3047110. JSTOR 3047110.
  • The Fundamental Issue: Documents and Marginal Notes on the University of California Loyalty Oath, Parker Print. Co., 1950. OCLC 1182841OCLC 1182841.
  • "Dante's 'Two Suns'", in Semitic and Oriental Studies, 1951.
  • "Pro Patria Mori in Medieval Political Thought", The American Historical Review, 56 (3), (1951). doi:10.2307/1848433. JSTOR 1848433.
  • "Inalienability: A Note on Canonical Practice and the English Coronation Oath in the Thirteenth Century", Speculum, Vol. XXIX, 1954. JSTOR 2846791.
  • "Mysteries of State: An Absolutist Concept and its Late Medieval Origins", Harvard Theological Review, Vol. XLVIII, 1955. doi:10.2307/2846791. JSTOR 1508452.
  • The King's Two Bodies: A Study in Mediaeval Political Theology, Princeton University Press, (1957). doi:10.2307/j.ctvcszz1c. ISBN 0691017042ISBN 0691017042. JSTOR j.ctvcszz1c.
  • Frederick the Second, 1194–1250, Frederick Ungar Publishing Co., 1957. ISBN 1548217115ISBN 1548217115.
  • "The Prologue to Fleta and the School of Petrus de Vinea," Speculum, 32 (2), 1957. doi:10.2307/2849115. JSTOR 2849115.
  • "On the Golden Marriage Belt and the Marriage Rings of the Dumbarton Oaks Collection", Dumbarton Oaks Papers, 14, 1960. doi:10.2307/1291142. JSTOR 1291142.
  • "The Archer in the Ruthwell Cross", The Art Bulletin, 42 (1), 1960. doi:10.2307/3047875. JSTOR 3047875.
  • Gods in Uniform, Proceedings of the American Philosophical Society, Vol. CV, 1961. OCLC 84680316OCLC 84680316.
  • "Puer Exoriens: On the Hypapante in the Mosaics of S. Maria Maggiore," Perennitas, 1963.
  • Selected Studies, J.J. Augustin, 1965. OCLC 1600443OCLC 1600443.

日本語

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中世政治思想における「祖国のために死ぬこと」 / 国家の神秘 / 「キリスト」と「国庫」
法学の影響下での王権 / ダンテの「ふたつの太陽」 / 芸術家の主権

脚注

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  1. ^ Choudhury, Soumyabrata (2011). “Why the People To Come Will Not, and Must Not, Be Sovereign: Notes on a Political and Mathematical Puzzle”. In Bradley, Arthur. The Messianic Now: Philosophy, Religion, Culture. Abingdon: Routledge 
  2. ^ Merquior, J. G. (1985). Foucault. Berkeley: University of California Press. p. 88 
  3. ^ Monateri, Pier Giuseppe (2018). Dominus Mundi: Political Sublime and the World Order. Oxford: Hart. p. 65 
  4. ^ Dasenbrock, Reed Way (1991). Imitating the Italians: Wyatt, Spenser, Synge, Pound, Joyce. Baltimore: Johns Hopkins University Press. p. 250 
  5. ^ Bratsis, Peter (2016). Everyday Life and the State. Abingdon: Routledge. p. 33 
  6. ^ Duden Aussprachewörterbuch (Duden Band 6), Auflage 6, ISBN 978-3-411-04066-7
  7. ^ Norman F. Cantor, Inventing the Middle Ages, (1991) pp. 79-117.
  8. ^ Friedländer, Saul (2007) (ドイツ語). Den Holocaust beschreiben. p. 78. ISBN 9783835301856 
  9. ^ Lerner, Robert E. (2017). Ernst Kantorowicz: A Life. p. 59. doi:10.2307/j.ctt21c4v3z. ISBN 9781400882922. JSTOR j.ctt21c4v3z. OCLC 1080549540 
  10. ^ Goldsmith, Ulrich (1959). Stefan George: A Study of his Early Work. New York: Columbia University Press 
  11. ^ Lerner 2017, p. 62.
  12. ^ Abulafia, David (1997). “Kantorowicz, Frederick II and England”. In Benson, Robert L.. Ernst Kantorowicz. Stuttgart: Franz Steiner Verlag. pp. 125. ISBN 978-3515069595 
  13. ^ Lerner 2017, pp. 105, 115.
  14. ^ Leyser, Conrad (2016). “Introduction to the Princeton Classics Edition”. The King's Two Bodies: A Study in Mediaeval Political Theology. Princeton, NJ: Princeton University Press. pp. x–xi. ISBN 978-0691169231 
  15. ^ Lerner 2017, p. 146.
  16. ^ Lerner 2017, p. 168.
  17. ^ Lerner 2017, p. 187.
  18. ^ Lerner 2017, p. 201.
  19. ^ Lerner 2017, p. 221.
  20. ^ Ernst H. Kantorowicz (1950年). “The Fundamental Issue: Documents and Marginal Notes on the University of California Loyalty Oath”. Parker Printing Co.. 2021年6月8日閲覧。
  21. ^ Lerner 2017, p. 330.
  22. ^ Lerner 2017, p. 333.
  23. ^ Leyser 2016, pp. xix–xx.
  24. ^ Lerner 2017, pp. 355, 350, 352.
  25. ^ Leyser 2016, pp. ix–x.
  26. ^ Lerner 2017, p. 357.
  27. ^ Lerner 2017, pp. 376, 385.
  28. ^ a b "Defending Kantorowicz," Letter to the New York Review of Books by Robert L. Benson, Ralph E. Giesey and Margaret Sevcenko and response by Robert Bartlett, Aug. 13, 1992.
  29. ^ a b Lipkin, Michael (15 June 2016). “When Emperors Are No More”. The Paris Review. https://www.theparisreview.org/blog/2016/06/15/when-emperors-are-no-more/ 20 December 2019閲覧。 
  30. ^ Abulafia, David (1997). “Kantorowicz, Frederick II and England”. In Benson, Robert L.. Ernst Kantorowicz. Stuttgart: Franz Steiner Verlag. pp. 125–26. ISBN 978-3515069595 
  31. ^ Lerner 2017, p. 185.
  32. ^ Leyser 2016, p. xiv.

参考文献

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  • Abulafia, David. "Kantorowicz and Frederick II." History 62(205) (1977): 193–210. JSTOR 24411237.
  • Boureau, Alain. Kantorowicz: Stories of a Historian The Johns Hopkins University Press, 2001. ISBN 9780801866234ISBN 9780801866234.
  • Cantor, Norman F. (1st) Inventing the Middle Ages, 1991. pp 79–117. negative view of Kantorowicz. ISBN 0688123023ISBN 0688123023.
  • Daum, Andreas, Hartmut Lehmann, James Sheehan (eds.), The Second Generation: Émigrés from Nazi Germany as Historians. With a Biobibliographic Guide. New York: Berghahn Books, 2016, ISBN 978-1-78238-985-9.
  • Franke, Norman, "‘Divina Commedia teutsch’? Ernst H. Kantorowicz: Der Historiker als Politiker." In: Historische Zeitschrift (291, 2/2010), pp. 297–330 (German)
  • Franke, Norman, ’Honour and Shame’. Karl Wolfskehl and the v. Stauffenberg Brothers: Political Eschatology in Stefan George's Circle. In: Simms, Norman (ed.): Letters and Texts of Jewish History. Hamilton 1998, pp. 89–120
  • Free, John B. "Ernst Kantorowicz. An Accounting", Central European History, 32(2), (1999). JSTOR 4546870.
  • Landauer, Carl. "Ernst Kantorowicz and the Sacralization of the Past", Central European History, Vol. 27(1), (1994). JSTOR 4546389.
  • Lerner, Robert. Ernst Kantorowicz: A Life. Princeton University Press, 2016. ISBN 069117282XISBN 069117282X.
    • Medieval Scholarship Biographical Studies on the Formation of a Discipline: History, Vol. I, ed. Helen Damico & Joseph B Zavadil, 1995; biographical essays for "Ernst H. Kantorowicz" by Robert E. Lerner and "Percy Ernst Schramm" by Janos Bak, both of whom respond to allegations in Cantor's book. ISBN 9780824068943ISBN 9780824068943.
  • Peters, Edward. "More Trouble With Henry: The Historiography of Medieval Germany in the Angloliterate World, 1888–1995." Central European History 28, no. 1 (1995): 47–72. doi:10.1017/S0008938900011249. ISSN 0008-9389ISSN 0008-9389.
  • Rust, Jennifer R. "Political Theologies of the Corpus Mysticum: Schmitt, Kantorowicz, and de Lubac" (on The King's Two Bodies) in Political Theology and Early Modernity (University of Chicago Press, 2012): 102–123. doi:10.7208/chicago/9780226314990.001.0001. ISBN 9780226314976ISBN 9780226314976.
  • アラン・ブーロー『カントロヴィッチ ある歴史家の物語』 藤田朋久訳、みすず書房、1993年

関連項目

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外部リンク

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