コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「結城孫三郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
第13代目孫三郎の襲名披露公演が昨日(日本時間)6月6日に千穐楽。
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Robot: ウィキ文法修正 104: Unbalanced quotes in ref name
49行目: 49行目:
(昭和53年(1978年) - )本名は田中数馬。
(昭和53年(1978年) - )本名は田中数馬。


12代目結城孫三郎の長男。2021年(令和3年)6月、第13代目襲名披露公演<ref name="nikkei0522/>。
12代目結城孫三郎の長男。2021年(令和3年)6月、第13代目襲名披露公演<ref name="nikkei0522" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年6月11日 (金) 01:12時点における版

結城 孫三郎(ゆうき まござぶろう)は糸あやつり人形遣い師。江戸糸あやつり人形芝居「結城座」の座長で、名跡でもある。現在の当主は12代目である[1](2021(令和3)年6月に、12代目の長男が第13代目を襲名)[2]が2代目から8代目まで不明な点が多い。

初代

生没年不詳

1635年江戸説経節の人形芝居結城座を開いた。後に義太夫の糸操り人形芝居を興行を行なった。

2代目

3代目

4代目

5代目

6代目

7代目

8代目

9代目

明治4年(1869年)8月 - 昭和22年(1947年1月11日)本名は田中清太郎。

東京の生まれ、写絵師の両川亭船遊の子。糸あやつり人形遣いの山本三之助等に師事し、1900年に9代目孫三郎と改名して写し絵から糸あやつりに転じる。 写絵も嗜み2代目両川亭船遊を襲名している。

長男が10代目孫三郎(後の結城雪斎)、孫は11代目孫三郎、12代目孫三郎、3代目結城一糸

10代目

(明治40年(1907年1月9日 - 平成9年(1997年12月13日)本名は田中清。

東京の生まれ、9代目孫三郎の長男。1911年に2代目結城一糸の名で初舞台。1947年に10代目孫三郎を襲名。1972年に長男に11代目孫三郎を譲り、結城雪斎を襲名。結城座だけでなくテレビ、寄席への出演も積極的に行い普及に力を注いだ。海外公演も積極に行なった。1986年ベオグラード国際演劇祭での「マクベス」はベオグラード国際演劇祭特別賞受賞。他の受賞に、1956年には結城座の東京都無形文化財保持者。1957年芸術祭賞 文部大臣賞。1970年紫綬褒章。同年に文化財功労者 勲四等瑞宝章等がある。

著書に「糸あやつり」。

妻は女義太夫(娘義太夫)の竹本素京、長男が11代目孫三郎、次男が12代目孫三郎、三男が3代目結城一糸、長女が3代目結城千恵。

11代目

(昭和9年(1934年12月6日 - )本名は田中純。

東京の生まれ、10代目孫三郎の長男。1938年に日本橋倶楽部で初舞台。1972年に11代目孫三郎を襲名し座長に就任。1990年12月「結城座」退座、孫三郎を返上し「操り座おどらでく」を結成。本名の田中純を名乗り、2005年には三代目結城一糸らと共に「江戸糸あやつり人形座」を設立。実験的な活動にも積極的に参加している。

12代目

(昭和18年(1943年10月16日 - )本名は田中克昌。

結城孫三郎 (12代目) - 10代目結城孫三郎との二男。

13代目

(昭和53年(1978年) - )本名は田中数馬。

12代目結城孫三郎の長男。2021年(令和3年)6月、第13代目襲名披露公演[2]

脚注

  1. ^ 第13代襲名披露公演は2021年6月6日が千穐楽だが、6月7日現在(日本時間)の結城座公式サイト[1]では、理事長は12代目である。
  2. ^ a b 日本経済新聞(夕刊)・2021(令和3)年5月22日・第8面「結城座 十三代目孫三郎が襲名公演」 襲名披露公演は2021(令和3)年6月2~6日、東京芸術劇場シアターウエスト(東京都豊島区)で開催予定。

関連項目