コンテンツにスキップ

「利府城」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 各地方の史跡一覧記事の改名に伴うリンク付け替え依頼 (北海道・東北地方の史跡一覧) - log
41行目: 41行目:
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[日本の城一覧]]
* [[日本の城一覧]]
* [[北海道・東北の史跡一覧]]
* [[北海道・東北地方の史跡一覧]]
* [[日本の城一覧#宮城県|宮城県の城一覧]]
* [[日本の城一覧#宮城県|宮城県の城一覧]]



2021年6月20日 (日) 01:19時点における版

logo
logo
利府城
宮城県
別名 村岡城、森郷城
城郭構造 山城
築城主 村岡氏
築城年 不明
主な改修者 留守氏
主な城主 村岡氏、留守氏
廃城年 1590年(天正18年)
遺構 曲輪、空堀、土塁
指定文化財 なし
テンプレートを表示

利府城(りふじょう)は、現在の宮城県宮城郡利府町に存在した日本の城である。

構造

松島丘陵の丘陵地帯の中にあり標高約90メートルの自然の山を利用した峻険な城郭となっている。山頂付近から3段もしくは5段にわたる曲輪が作られており現在でも曲輪跡の平地を見ることが出来る。

歴史

利府城は鎌倉時代奥州探題である留守氏の家臣村岡氏によって築かれたと考えられている。その後も村岡氏の居城であったと考えられるが、長い間歴史の表舞台には出てこなかった。

1567年、村岡氏の主家である留守氏が伊達氏から養子を迎えることになると村岡氏はこれに反発する。しかし、養子縁組は滞りなく行われた。これを受けて1569年に村岡氏は挙兵し留守氏と交戦するも、翌1570年に利府城は落城して村岡氏は滅亡した。

利府城を攻略した留守政景は利府城を修繕・改修し岩切城から移りこれを居城とした。利府城は伊達氏が北に抱える敵である大崎氏葛西氏に対する守りの最前線として重要視された。その後、留守政景が豊臣秀吉小田原征伐に参陣しなかったため所領を没収され、居城である利府城も廃城となった。

現地情報

現在の状況

  • 現在は館山公園として整備されており、本丸跡が桜の名所として親しまれている。
  • 二の丸・三の丸にあたる平地には児童向けの遊具が設置されている。

交通アクセス

関連項目