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「佐嘉飯盛城」の版間の差分

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2021年6月20日 (日) 02:14時点における版

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佐嘉飯盛城
佐賀県
別名 飯盛館、飯盛屋敷
城郭構造 平城
築城主 少弐資嗣
築城年 永享3年(1431年
主な城主 少弐氏飯盛氏石井氏
廃城年 不明
遺構 濠跡、古井戸
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佐嘉飯盛城(さがいさがいじょう)は佐賀県に存在した日本の城平城)。

概要

佐賀平野南部に設けられ、現在の佐賀県佐賀市本庄町鹿子に位置する。周囲はクリークを利用した水濠に囲まれていた。別名は、飯盛館飯盛屋敷。城郭というよりも、戦国時代の在郷武士の居館程度の規模であったと考えられる。

肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村中心部の本善寺永享元年(1429年)、石井忠國によって建立)付近に、大宰府守護少弐満貞の嫡男資嗣によって築かれた。その後、地侍飯盛氏が入り、さらに小城郡千葉氏のもとで立身した石井忠國が当村を知行することになり、嫡男忠保が小城郡から移り、本拠地とした。

忠保の孫忠清のとき、水ヶ江城龍造寺家兼の家臣となり、当城も水ヶ江城の出城として、海岸警備の拠点となる。天文年間に、家兼隆信二代に渡り、水ヶ江城を追われて筑後国に亡命すると、敵方の高木氏、神代氏、八戸氏の軍勢が駐屯した。天文22年(1543年)、龍造寺隆信が筑後国から帰還し、水ヶ江城へ進軍する途上、隆信旗下の石井義昌(忠保の孫、忠清の三弟)・忠晴隊が攻略・奪回し、再び石井氏の居城となった。

江戸時代に入り、石井氏は佐賀平野のさらに南部の河副郷に転封となり、当地を去ったことから、当城も廃城となり、城域にあった本善寺も衰退した。元和元年(1615年)、佐賀藩初代藩主鍋島勝茂が、外祖父石井常延(忠清の嫡男)の追善供養のため、本善寺を再興し、常延の法名に因んで常照院と改称。現在では同院の境内がかつての佐嘉飯盛城跡とされている。常照院の境内が、旧城の主郭(本丸)と考えられ、主郭の南に二郭(二の丸)、さらにその南に三郭(三の丸)が配置された縄張りであった。境内には、城時代の古井戸跡や、水豪跡などが残っている。

逸話

  • 佐賀藩鍋島直茂が、龍造寺隆信の出陣の際にお供をして、当城に立ち寄り、昼食をとったことがあったが、そのときお供の人数が多く、当城の台所は、騒然と慌ただしく隆信らの昼食を用意していた。そのとき、城主石井常延の娘彦鶴姫が、女中衆の手際の悪さに呆れて、みずから大量の鰯を瞬く間に焼き上げて、隆信らの膳に供した。この一部始終を見ていた直茂は、「あのように機転の利く女性を妻にしたい」と思い込んで、その後、幾度もなく当城に通いつめ、彦鶴姫に求婚した。両人はめでたく祝言を挙げる結末に至るが、あるとき石井氏の家来に怪しまれ、当城内を追い立てられて、濠を飛び越えたところを斬りつけられたという。そのときの足の裏の傷は生涯残ったという。(『葉隠』より)

参考文献

  • 常照院由緒

関連項目