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8月、石弘は石虎を[[丞相]]・魏王・大単于として[[九錫]]を下賜し、魏郡を始め13郡を封国とし、百揆を全て取り仕切るよう命じた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。また、領内の死刑以下に[[大赦]]を下し、石虎の妻である[[鄭桜桃]]を魏王后に、子の石邃を魏太子に立てた。また、石邃を使持節・[[侍中]]・大都督・中外諸軍事・[[大将軍]]・[[録尚書事]]に任じ、[[石宣]]を使持節・車騎大将軍・[[冀州]]刺史に任じて河間王に封じ、[[石韜]]を前鋒将軍・[[司隷校尉]]に任じて楽安王に封じ、[[石遵]]を斉王に封じ、[[石鑑]]を代王に封じ、[[石苞 (後趙)|石苞]]を楽平王に封じ、太原王石斌を章武王に改封した。
8月、石弘は石虎を[[丞相]]・魏王・大単于として[[九錫]]を下賜し、魏郡を始め13郡を封国とし、百揆を全て取り仕切るよう命じた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。また、領内の死刑以下に[[大赦]]を下し、石虎の妻である[[鄭桜桃]]を魏王后に、子の石邃を魏太子に立てた。また、石邃を使持節・[[侍中]]・大都督・中外諸軍事・[[大将軍]]・[[録尚書事]]に任じ、[[石宣]]を使持節・車騎大将軍・[[冀州]]刺史に任じて河間王に封じ、[[石韜]]を前鋒将軍・[[司隷校尉]]に任じて楽安王に封じ、[[石遵]]を斉王に封じ、[[石鑑]]を代王に封じ、[[石苞 (後趙)|石苞]]を楽平王に封じ、太原王石斌を章武王に改封した。


石勒の時代からの文武の旧臣はみな左右丞相府の閑職に追いやられ、代わって石虎の府に仕えていた側近が朝廷の重職を独占した。また、石虎は太子宮を崇訓宮と改称し、劉皇太后以下をみな移住させた。また、美しく淑やかな者や、石勒の所持していた車馬・珍宝・服御から上品を選ぶと、全て自らの官署に入れた。鎮軍将軍[[キ安|夔安]]を左僕射に、尚書[[郭殷]]を右僕射に任じた。
石勒の時代からの文武の旧臣はみな左右丞相府の閑職に追いやられ、代わって石虎の府に仕えていた側近が朝廷の重職を独占した。また、石虎は太子宮を崇訓宮と改称し、劉皇太后以下をみな移住させた。また、美しく淑やかな者や、石勒の所持していた車馬・珍宝・服御から上品を選ぶと、全て自らの官署に入れた。鎮軍将軍[[夔安]]を左僕射に、尚書[[郭殷]]を右僕射に任じた。


劉皇太后は彭城王石堪と共に密かに石虎討伐を目論み、石堪が兗州に出奔して南陽王([[石恢]])を盟主として担ぎ、劉皇太后が詔をもって各地の諸将を集めて石虎を討伐しようとした。
劉皇太后は彭城王石堪と共に密かに石虎討伐を目論み、石堪が兗州に出奔して南陽王([[石恢]])を盟主として担ぎ、劉皇太后が詔をもって各地の諸将を集めて石虎を討伐しようとした。

2021年6月27日 (日) 07:33時点における版

海陽王 石弘
後趙
第2代皇帝
王朝 後趙
在位期間 333年 - 334年
姓・諱 石弘
大雅
生年 嘉平3年(313年
没年 延熙元年(334年)11月
石勒
程氏
年号 建平 : 333年
延熙 : 334年

石 弘(せき こう)は、五胡十六国時代後趙の第2代皇帝。字は大雅。父は石勒。母は程夫人。石勒の死後に帝位に即いたが、その実態は石虎の傀儡に過ぎず、翌年には殺害された。

生涯

父の時代

313年、石勒の次子として生まれた。

幼い頃から孝行であり、恭謙である事を自らの信条とし、早くから杜嘏よりを、続咸よりを学んでいた。ある時、石勒は「今の世は承平(平和)にあらず。文業ばかりを学ばせるべきではないな」と考え、これにより劉徴任播より兵書を、王陽より撃刺(剣術)を学ぶようになった。

322年2月、元々は長子の石興が世子に立てられていたが、彼は早世してしまった。その為、石弘は代わって世子に立てられ、中領軍の統率を命じられた。やがて衛将軍に任じられ、開府辟召(自らの幕府を開く事)を認められた。

326年10月、石勒は宮殿を建て直すと、石弘に鄴の統治を任せようと考えた。だが、当時鄴は中山王石虎(石勒の従子)が守っており、彼は自らの勲功が重い事から鄴を譲る考えは全く無かった。その為、石勒は程遐(石弘の母の兄)と密かにこの件について相談し、宮殿の修築が終わると共に石虎の家室を無理矢理鄴から移らせた。石虎はこれにより程遐を深く怨み、側近数10人に程遐の家を夜襲させたという。石弘は鄴の鎮守を命じられ、禁兵1万人を配され、車騎が統べていた54の陣営全てを任せられた。また、驍騎将軍・領門臣祭酒王陽が六夷(胡族)を統率して石弘の補佐に当たった。

330年2月、石勒が趙天王を称すと、石弘は天王太子に立てられた。

9月、石勒が帝位に即くと、石弘は皇太子に立てられた。石弘は謙虚さをもって士を愛し、また文学の才を有していた。詩文を好み、彼が親しくする者はみな儒家としての資質を持っていた。

同月、石勒は側近の徐光へ「大雅(石弘)は穏やかな性格で、将家の子でないかのようだ。」と言うと、徐光は「漢祖(劉邦)は馬上で天下を取りましたが、孝文(劉恒)は静かにそれを守りました。聖人の後、必ずや世に粗暴な者は不要となります。これこそ天の道なのです。」と答え、石勒は大いに喜んだ。徐光は再び「皇太子は仁孝温恭ですが中山王(石虎)は雄暴多詐であり、もし一旦陛下に不慮のことがあれば、社稷の危機を招くのではないかと憂慮しております。中山の威権を少しずつ奪い、太子を早く朝政に参画させられますように。」と進言すると、石勒は内心同意したが従わなかった。

これ以降も徐光・程遐は石勒へ、強大な権力を有する石虎を除き、石弘の地位を安定させるように幾度も進言したが、結局石勒は聞き入れなかった。

332年、石勒は石弘に尚書の奏事の決済を命じると、中常侍厳震にはこれを監督させ、その可否を確認させた。これにより、厳震は実質的に征伐・刑断の大事を預かるようになり、その威権は大いに高まって宰相をも凌ぐ程となった。その一方、石虎は一時の権勢を失ったので、さらにその不満を募らせたという。

333年5月、石勒は病に倒れると、石虎・石弘・厳震を呼び出して禁中に控えさせた。だが、石虎は石勒の命と偽って石弘・厳震を始め内外の群臣や親戚を退けたので、誰も石勒の病状を把握出来なくなった。石勒の病状がいよいよ悪くなると「大雅(石弘の字)はまだ幼いので、恐らく朕の志を継ぐにはまだ早いであろう。中山(中山王の石虎)以下、各々の群臣は、朕の命に違う事の無きよう努めよ。大雅は斌(石斌)と共に協力し、司馬氏の内訌を汝らの戒めとし、穏やかに慎み深く振舞うのだ。中山王は深く周霍(周公旦霍光)を三思せよ。これに乗じる事の無い様に。」と遺命を告げた。

石虎の傀儡

7月、石勒が崩御すると、石虎はすぐさま石弘の身柄を抑え、朝廷に臨んだ。また、程遐・徐光を捕らえるよう命じ、廷尉に下した。さらに、子の石邃を呼び寄せ、兵を与えて宿衛に侵入させると、文武百官はみなこれに服従した。石弘は大いに恐れ、石虎へ位を譲ろうとしたが、石虎は「君(君主)が薨じたならば、世子が立つものです。これは礼の常であり、臣はどうしてこれを乱せましょうか!」と応じなかった。だが、石弘は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたので、石虎は怒って「もしその任に堪えられなかったならば、自ずと天下で大議が起こりましょう。どうして今その論を預かるに足りましょうか!」と言い放ち、遂に石弘は強制的に皇帝に即位させられた。延熙と改元し、嫡母の劉皇后は皇太后に立てられ、文武百官は位を一等進められ、程遐・徐光は誅殺された。石勒の遺体は山谷に密かに埋葬され、その場所を知る者はいなかった。後日、儀仗や衛士を備えた上で、改めて高平陵において虚葬を行い、明帝と諡し、廟号を高祖とした。

同月、後趙の将軍石聡・譙郡太守彭彪は各々東晋へ使者を派遣し、帰順を要請した。その為、東晋朝廷は督護喬球に将兵を与えて救援させたが、到着する前に石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した。

8月、石弘は石虎を丞相・魏王・大単于として九錫を下賜し、魏郡を始め13郡を封国とし、百揆を全て取り仕切るよう命じた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。また、領内の死刑以下に大赦を下し、石虎の妻である鄭桜桃を魏王后に、子の石邃を魏太子に立てた。また、石邃を使持節・侍中・大都督・中外諸軍事・大将軍録尚書事に任じ、石宣を使持節・車騎大将軍・冀州刺史に任じて河間王に封じ、石韜を前鋒将軍・司隷校尉に任じて楽安王に封じ、石遵を斉王に封じ、石鑑を代王に封じ、石苞を楽平王に封じ、太原王石斌を章武王に改封した。

石勒の時代からの文武の旧臣はみな左右丞相府の閑職に追いやられ、代わって石虎の府に仕えていた側近が朝廷の重職を独占した。また、石虎は太子宮を崇訓宮と改称し、劉皇太后以下をみな移住させた。また、美しく淑やかな者や、石勒の所持していた車馬・珍宝・服御から上品を選ぶと、全て自らの官署に入れた。鎮軍将軍夔安を左僕射に、尚書郭殷を右僕射に任じた。

劉皇太后は彭城王石堪と共に密かに石虎討伐を目論み、石堪が兗州に出奔して南陽王(石恢)を盟主として担ぎ、劉皇太后が詔をもって各地の諸将を集めて石虎を討伐しようとした。

9月、石堪は襄国を出ると軽騎兵を率いて兗州を強襲したが、攻略に手間取って落とす事が出来なかった。その為、南へ逃走して譙城に入った。石虎はこの事を知ると、配下の将軍郭太らを派遣して追撃を命じた。郭太らは石堪を城父において捕らえると、襄国へ送還した。石虎はこれを火炙りにして処刑し、劉皇太后もまた誅殺した。また、石恢を襄国に召還した。

その後、石弘の母である程夫人を尊んで皇太后に立てた。

10月、関中を統治する石生洛陽を統治する石朗は各々石虎討伐の兵を挙げた。石生は秦州刺史を自称すると、東晋に使者を派遣して帰順を請うた。また、氐族酋長蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、雍州刺史・北平将軍を自称すると共に西進して前涼君主張駿に帰順した。石虎は子の石邃に襄国の守備を任せ、自ら歩兵騎兵7万を率いて出撃すると、金墉(洛陽城の一角)へ進んで石朗軍を尽く潰滅させた。石朗は生け捕られ、足を切断されてから殺された。

さらに石虎は進軍を続けて長安に到達すると、子の石挺を前鋒大都督に任じた。石生は将軍郭権に鮮卑の渉璝部の兵2万を与えて石虎を迎え撃たせ、石生自らも大軍を統率して後続し、蒲坂まで進んだ。郭権は潼関において石挺軍と激突すると、大勝を挙げた。この戦いで石挺と丞相左長史劉隗らはみな戦死し、屍が三百里余りに渡って連なった。これにより、石虎は澠池まで軍を退いた。郭権配下の鮮卑は密かに石虎と通じ、石生を裏切って攻撃に転じた。この時、石生は蒲坂に軍を留めており、石挺が敗れて戦死した事を知らなかったので、これに恐れ慄き、単騎で長安へ逃走した。郭権は離散した兵3千を再び集めると、越騎校尉石広と渭汭において対峙した。石生は長安からも撤退して鶏頭山(鄠県の東にある)へと潜伏し、将軍蔣英に長安を守らせた。石虎は石生が逃亡したと知ると、軍を進めて入関した。そのまま長安へ侵攻すると、10日余りでこれを陥落させ、蔣英らを処断した。石生の部下は鶏頭山において石生を殺害すると、石虎に降伏した。郭権は恐れて隴西へと逃亡した。

石虎は諸将を分けて汧・隴に駐屯させると、雍州・秦州の漢人胡人10万戸余りを関東に移住させた。また、将軍麻秋を派遣して蒲洪討伐を命じると、蒲洪は2万戸を伴って再び石虎へ降伏した。石虎はこれを許して光烈将軍・護氐校尉に任じた。また、秦州・雍州の民と氐族・羌族の10万戸余りを関東へ移住させると、蒲洪を龍驤将軍・流民都督に任じ、枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県)に駐屯させた。また、羌族酋長の姚弋仲を奮武将軍・西羌大都督に任じ、兵数万を率いさせて清河の灄頭に移らせた。

石虎は襄国に帰還すると、大赦を下した。また、石弘には自らに魏台の建設を命じるよう促した。これはを輔けた故事に倣ったものである。

12月、郭権は上邽に拠ると、東晋へ使者を派遣して帰順を請うた。京兆新平扶風馮翊北地はみなこれに呼応した。

334年1月、延熙と改元した。鎮西将軍石広は郭権討伐に向かったが、返り討ちに遭った。

3月、石虎は将軍郭敖・章武王石斌に歩兵騎兵4万を与え、郭権討伐を命じた。郭敖らは出撃すると華陰まで進んだ。

4月、上邽の豪族は郭権を殺害すると、後趙に降伏した。石虎は秦州の3万戸余りを青州・并州の諸郡に移住させた。同月、仇池の南氐楊毅[1]は後趙へ人質を送り、修好を求めてきた。

長安出身の陳良夫は黒羌へ逃走すると、北羌王薄句大らと結託して北地・馮翊を侵犯し、石斌・郭敖と対峙した。楽安王石韜らは騎兵を率いて薄句大の背後を突き、石斌らと挟撃してこれを破り、薄句大を馬蘭山へ敗走させた。郭敖は勝ちに乗じて深追いしたが、反撃に遭って大敗を喫し、7・8割の兵を失った。その為、石斌らは軍を収めて三城に帰還した。石虎は使者を派遣して郭敖を誅殺した。

同月、秦王石宏が怨み言を言ったとして、石虎は彼を幽閉した。

最期

10月、石弘は自ら璽綬(天子の印と組紐)を携えて魏宮を詣でると、石虎へ帝位を譲る意を伝えた。これに石虎は「帝王の大業というものは、天下が自ずと議をなすものです。どうしてこれを自ら論じましょうか!」と拒絶した。その為、石弘は涙を流して宮殿に戻ると、母の程皇太后へ「先帝の後裔は真に無くなりましょう!」と語った。

その後、尚書は「魏台(石虎)が唐・虞の禅譲の故事に依る事を求めます」と奏じたが、石虎は「弘は暗愚である。喪中にありながらこのような礼なき振る舞いを行うとは。万国の君となるべき存在ではない。これは廃するべきであり、どうして禅譲など受けようか!」と述べた。

11月、石虎は丞相郭殷に節を持たせて入宮させると、石弘を廃して海陽王に封じた。石弘はゆっくりと歩きながら車に乗り込み、顔つきは自若としていた。そして群臣へ向けて「庸昧(愚鈍)であったため、大統を纂承するに堪えられなかった。群臣を顧りみれば、慚愧するばかりである。これもまた天命が去ったと言う事であろう。これ以上何を言おうか!」と言い残した。群臣はみな涙を堪えられず、宮人は慟哭した。石弘は程皇太后・秦王石宏・南陽王石恢と共に幽閉され、やがて殺害された。

宗室

  • 石興(最初の世子、早世)

  • 石宏(秦王)
  • 石恢(南陽王)
  • 石斌(石虎の子、石勒の養子となる、太原王)
  • 石堪(旧姓は田、石勒の養子となる、彭城王)
  • 石生(石勒の養子となる、河東王)

脚注

  1. ^ 『晋書』には楊難敵とあるが、この時既に彼は死んでいる

参考文献