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'''オタス'''とは[[樺太]][[敷香郡]][[敷香町]](現・[[ポロナイスク]])にあった[[先住民]][[集落]]。[[幌内川_(樺太)|幌内川]]と[[敷香川]]に分れる[[三角州]]の[[砂丘]]地に位置し、敷香市街とは敷香川によって隔てられ島の様な地形となっていた。'''オタスの杜'''(オタスのもり)とも。 |
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[[昭和]]初期に先住民[[居留地|指定居住地]]となり、樺太原住民族であるオロッコ([[ウィルタ]])、ギリヤーク([[ニヴフ]])、サンダー([[ウリチ]])、キーリン([[エヴェンキ]])、[[ヤクート]]の5民族の多くが集められた。 |
[[昭和]]初期に先住民[[居留地|指定居住地]]となり、樺太原住民族であるオロッコ([[ウィルタ]])、ギリヤーク([[ニヴフ]])、サンダー([[ウリチ]])、キーリン([[エヴェンキ]])、[[ヤクート人|ヤクート]]の5民族の多くが集められた。 |
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[[1930年]](昭和5年)[[7月]]にはそこでオタス[[土人教育所]]が建設され、[[1936年]](昭和11年)にはオタス神社が竣成された。原住民に対しては[[日本語]][[教育]]等が行われたが、[[アイヌ]]以外の先住民族は戸籍上は樺太土人として[[内地]]人と区別されていた(アイヌも1931年12月までは戸籍上は樺太土人として内地人と区別されていた)。 |
[[1930年]](昭和5年)[[7月]]にはそこでオタス[[土人教育所]]が建設され、[[1936年]](昭和11年)にはオタス神社が竣成された。原住民に対しては[[日本語]][[教育]]等が行われたが、[[アイヌ]]以外の先住民族は戸籍上は樺太土人として[[内地]]人と区別されていた(アイヌも1931年12月までは戸籍上は樺太土人として内地人と区別されていた)。 |
2021年6月28日 (月) 21:41時点における版
オタスとは樺太敷香郡敷香町(現・ポロナイスク)にあった先住民集落。幌内川と敷香川に分れる三角州の砂丘地に位置し、敷香市街とは敷香川によって隔てられ島の様な地形となっていた。オタスの杜(オタスのもり)とも。
昭和初期に先住民指定居住地となり、樺太原住民族であるオロッコ(ウィルタ)、ギリヤーク(ニヴフ)、サンダー(ウリチ)、キーリン(エヴェンキ)、ヤクートの5民族の多くが集められた。
1930年(昭和5年)7月にはそこでオタス土人教育所が建設され、1936年(昭和11年)にはオタス神社が竣成された。原住民に対しては日本語教育等が行われたが、アイヌ以外の先住民族は戸籍上は樺太土人として内地人と区別されていた(アイヌも1931年12月までは戸籍上は樺太土人として内地人と区別されていた)。
出身人物
- ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(北川源太郎) - ウィルタ。北方少数民族復権運動家。
- ドミートリー・ヴィノクーロフ - ソ連からの亡命ヤクート人。「トナカイ王」と呼ばれ、故郷ヤクーチア(サハ共和国)の独立に向け、日本の支援を求めた。
脚注