コンテンツにスキップ

「楊昭」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Category:煬帝の子女を追加 (HotCat使用)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「恭帝侗」「張瓘」の改名に伴うリンク修正依頼 (恭帝侗) - log
4行目: 4行目:
[[584年]]1月、楊広と[[煬愍蕭皇后|蕭妃]](のちの蕭皇后)の間に生まれた。大曹主と称され、祖父の[[楊堅|文帝]](楊堅)に特に可愛がられた。[[595年]]、河南王に立てられた。[[601年]]、晋王に徙封され、内史令に任ぜられ、左衛大将軍を兼ねた。[[604年]]、雍州牧に転じた。煬帝が即位すると、洛陽に幸したため、楊昭は[[長安|大興城]]で留守を守った。[[605年]]、皇太子に立てられた。楊昭は武力に長け、強弩をよく引き、態度は謙虚でつつましく、怒りを見せることがなかったと伝えられる。生活は質実簡素で、臣下に父母あるものにはその安否を訊ね、歳時に合わせて贈り物を送った。[[606年]]、洛陽に向かい、煬帝の朝廷に出仕した。間もなく病の床に伏し、煬帝が巫者に見せると[[楊勇|房陵王]](楊勇)の祟りと言われた。7月23日、行宮で世を去った。
[[584年]]1月、楊広と[[煬愍蕭皇后|蕭妃]](のちの蕭皇后)の間に生まれた。大曹主と称され、祖父の[[楊堅|文帝]](楊堅)に特に可愛がられた。[[595年]]、河南王に立てられた。[[601年]]、晋王に徙封され、内史令に任ぜられ、左衛大将軍を兼ねた。[[604年]]、雍州牧に転じた。煬帝が即位すると、洛陽に幸したため、楊昭は[[長安|大興城]]で留守を守った。[[605年]]、皇太子に立てられた。楊昭は武力に長け、強弩をよく引き、態度は謙虚でつつましく、怒りを見せることがなかったと伝えられる。生活は質実簡素で、臣下に父母あるものにはその安否を訊ね、歳時に合わせて贈り物を送った。[[606年]]、洛陽に向かい、煬帝の朝廷に出仕した。間もなく病の床に伏し、煬帝が巫者に見せると[[楊勇|房陵王]](楊勇)の祟りと言われた。7月23日、行宮で世を去った。


子に[[恭帝侑|楊侑]](恭帝侑)・[[楊タン|楊倓]]・[[恭帝トウ|楊侗]](恭帝侗、皇泰主)がいた。楊侗が皇帝に擁立された際、楊昭に孝成皇帝の[[諡|諡号]]と世宗の[[廟号]]が追贈された。
子に[[恭帝侑|楊侑]](恭帝侑)・[[楊タン|楊倓]]・[[恭帝|楊侗]](恭帝侗、皇泰主)がいた。楊侗が皇帝に擁立された際、楊昭に孝成皇帝の[[諡|諡号]]と世宗の[[廟号]]が追贈された。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2021年6月30日 (水) 08:21時点における版

楊 昭(よう しょう、開皇4年1月5日584年2月21日) - 大業2年7月23日606年8月31日))は、中国煬帝(楊広)の長男。皇太子に立てられたが、早逝した。元徳太子と史称される。

生涯

584年1月、楊広と蕭妃(のちの蕭皇后)の間に生まれた。大曹主と称され、祖父の文帝(楊堅)に特に可愛がられた。595年、河南王に立てられた。601年、晋王に徙封され、内史令に任ぜられ、左衛大将軍を兼ねた。604年、雍州牧に転じた。煬帝が即位すると、洛陽に幸したため、楊昭は大興城で留守を守った。605年、皇太子に立てられた。楊昭は武力に長け、強弩をよく引き、態度は謙虚でつつましく、怒りを見せることがなかったと伝えられる。生活は質実簡素で、臣下に父母あるものにはその安否を訊ね、歳時に合わせて贈り物を送った。606年、洛陽に向かい、煬帝の朝廷に出仕した。間もなく病の床に伏し、煬帝が巫者に見せると房陵王(楊勇)の祟りと言われた。7月23日、行宮で世を去った。

子に楊侑(恭帝侑)・楊倓楊侗(恭帝侗、皇泰主)がいた。楊侗が皇帝に擁立された際、楊昭に孝成皇帝の諡号と世宗の廟号が追贈された。

伝記資料

  • 隋書』巻59 列伝第24「煬帝三男伝」
  • 北史』巻71 列伝第59「隋宗室諸王伝」