コンテンツにスキップ

「徐防」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Katzenfrucht (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
5行目: 5行目:
}}
}}


'''徐防'''(じょ ぼう、生没年不詳)は、[[後漢]]の[[政治家]]。[[字]]は謁卿。[[本貫]]は[[沛郡|沛国]][[スイ渓県|銍県]]。
'''徐防'''(じょ ぼう、生没年不詳)は、[[後漢]]の[[政治家]]。[[字]]は謁卿。[[本貫]]は[[沛郡|沛国]][[渓県|銍県]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2021年7月3日 (土) 01:35時点における版

徐防(じょ ぼう、生没年不詳)は、後漢政治家は謁卿。本貫沛国銍県

経歴

徐憲の子として生まれた。若くして父祖の伝える易学を習った。永平年間、孝廉に察挙され、郎に任じられた。徐防は容貌が誇らしくおごそかで、応答に見るべきものがあったので、明帝はこれを珍しく思って、特別に尚書郎に抜擢した。徐防は枢機をつかさどる職務にあって、細心周到につとめ、明帝と章帝に仕えて失態を犯さなかった。和帝のとき、司隷校尉に転じ、魏郡太守として出向した。98年永元10年)、少府大司農に転じた。

102年(永元14年)11月[1]司空に任じられた。104年(永元16年)10月[1]司徒に転じた。106年延平元年)1月[2]太尉に転じ、太傅張禹とともに録尚書事をつとめた。

107年永初元年)[3]、龍郷侯に封じられた。9月[4]、災害や反乱が相次いだことから、徐防は太尉から罷免され、封国に赴いた。三公が災異のために免官されたのは、徐防を初例とする。

後に徐防は死去した。

子女

  • 徐衡(後嗣となるべきであったが、弟の徐崇に封を譲った)
  • 徐崇(兄の徐衡に封を譲られた。数年後、やむをえず龍郷侯の爵位についた)

脚注

  1. ^ a b 後漢書』和帝紀
  2. ^ 『後漢書』殤帝紀
  3. ^ 『後漢書』張禹伝に張禹や尹勤と同日に封じられたという。
  4. ^ 『後漢書』安帝紀

伝記資料