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『[[史記]]』始皇本紀によると、紀元前239年(始皇8年)、長安君成蟜が軍を率いて[[趙 (戦国)|趙]]を攻撃したとき、屯留・蒲鶮の兵卒を従えて謀反した。秦がこれを攻撃すると、成蟜は屯留で死に、軍吏はみな斬り死にし、その民は[[臨洮県|臨洮]]に遷された。 |
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『史記』三家注のひとつ『[[史記正義]]』では、成蟜は屯留の城壁の中で自殺したと解釈している。 |
『史記』三家注のひとつ『[[史記正義]]』では、成蟜は屯留の城壁の中で自殺したと解釈している。 |
2021年7月4日 (日) 13:00時点における版
姓名 | 嬴成蟜 |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生没年 | 生年不詳 - 前239年(始皇帝8年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 秦 |
職官 | 将軍〔秦〕 |
爵位・号等 | 長安君〔秦〕 |
陣営・所属等 | 始皇帝→〔独立勢力〕 |
家族・一族 | 父:荘襄王 母:韓国夫人[1] 兄:始皇帝 子:嬴嬰[2] |
成蟜[3](せいきょう、生年不詳 - 紀元前239年)は、中国の秦の始皇帝の弟。長安君に封ぜられた。
生涯
秦王政の5年(紀元前242年)韓に赴き、桓恵王から韓の地百里を接収し、その功により長安君に封ぜられたとされる[4]。
『史記』始皇本紀によると、紀元前239年(始皇8年)、長安君成蟜が軍を率いて趙を攻撃したとき、屯留・蒲鶮の兵卒を従えて謀反した。秦がこれを攻撃すると、成蟜は屯留で死に、軍吏はみな斬り死にし、その民は臨洮に遷された。
『史記』三家注のひとつ『史記正義』では、成蟜は屯留の城壁の中で自殺したと解釈している。
生母と子女
生母については、父の荘襄王こと嬴子楚が邯鄲を脱出して秦に帰国した際、邯鄲に残した趙姫と嬴政の無事は不明であり、子楚が生母である夏姫を安心させるために娶った韓国出身の夫人との間に生まれたとする説がある[1]:62。
また、上記の説を唱える歴史学者の李開元の説では秦の最後の君主である子嬰は成蟜が趙攻めの際に秦に叛いた際(成蟜の乱)、趙で生まれた彼の子であると言う[2]。
脚注
- ^ a b 李, 開元 (2010) (中国語). 《秦謎:秦始皇的秘密》. 台北市: 聯經. ISBN 9789570836523
- ^ a b 『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している李開元 (2006年7月16日). “秦王子嬰為始皇弟成蟜子説——補《史記》秦王嬰列伝” (中国語). 象牙塔网络. 2020年7月25日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『戦国策』巻六・秦策四・頃襄王二十年と『史記』春申君列伝によると盛橋と記されている(この場合は曾祖父の昭襄王が在命で、盛橋は韓に派遣されたと記されているために、始皇帝の異母弟の成蟜と同人物かは不詳である)。
- ^ 『史記』巻七十八・春申君列伝:今王使盛橋守事于韓,盛橋以其地入秦,是王不用甲,不信威,而得百里之地。
参考文献
- 『史記』始皇本紀