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太祖[[黎利]]の次男。父帝が崩御すると即位し、[[紹平]]と改元した。朝政は全て[[黎察]]の補弼により裁決されたが、見識がなかった黎察には不法行為が多く、忠臣を多く殺害した。成長した太宗は親政を開始したが、輔政に人材を得ないまま、間もなく酒色にふけるようになった。 |
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[[大宝 (黎朝)|大宝]]3年([[1442年]])7月に[[チーリン (ベトナム)|至霊県]]で閲兵したとき、当地で隠居していた元宰相の[[阮廌]]から端女の阮氏路を召し上げて寵愛した。嘉定県に至ったところ、太宗は突然崩御した。朝廷は阮氏路が太宗を弑逆したものとして、阮廌を逮捕し、その一族を処刑した。 |
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2021年7月12日 (月) 20:12時点における版
太宗 黎元龍 | |
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後黎朝 | |
第2代皇帝 | |
王朝 | 後黎朝 |
在位期間 | 1434年 - 1443年 |
姓・諱 | 黎元龍(黎麟) |
諡号 | 継天体道顕徳聖功欽明文思英睿仁哲昭憲建中文皇帝 |
廟号 | 太宗 |
生年 |
永楽21年11月20日 (1423年12月22日) |
没年 |
大宝4年8月4日 (1443年8月28日) |
父 | 太祖 |
母 | 恭慈高皇后 |
后妃 | 宣慈皇后 |
陵墓 | 祐陵 |
元号 |
紹平 : 1434年 - 1440年 大宝 : 1440年 - 1443年 |
黎太宗(れいたいそう、レ・タイトン、ベトナム語: Lê Thái Tông)は、後黎朝大越の第2代皇帝(在位:1434年 - 1443年)。名は黎 元龍(れい げんりゅう、ベトナム語: Lê Nguyên Long)または黎 麟(れい りん)。
生涯
太祖黎利の次男。父帝が崩御すると即位し、紹平と改元した。朝政は全て黎察の補弼により裁決されたが、見識がなかった黎察には不法行為が多く、忠臣を多く殺害した。成長した太宗は親政を開始したが、輔政に人材を得ないまま、間もなく酒色にふけるようになった。
大宝3年(1442年)7月に至霊県で閲兵したとき、当地で隠居していた元宰相の阮廌から端女の阮氏路を召し上げて寵愛した。嘉定県に至ったところ、太宗は突然崩御した。朝廷は阮氏路が太宗を弑逆したものとして、阮廌を逮捕し、その一族を処刑した。
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