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「海上五十狭茅」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
『[[古事記]]』及び『[[日本書紀]]』において[[建部氏]]の祖である[[倉見別王]]と共に[[かご坂皇子|麛坂皇子]]、[[忍熊皇子]]側につき、[[神功皇后]]・[[応神天皇]]と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰){{efn|[[吉師]]の祖:[[阿倍氏]]と共に[[吉志舞]]を舞った配下の[[難波吉師]]と同じ氏かは不詳。}}として登場する。戦いに敗れた後、『古事記』では海上に出て忍熊王と共に歌を歌って海に入水したとあり、『日本書紀』では忍熊皇子と共に歌を詠み、瀬田の渡りに沈んだとされる。
『[[古事記]]』及び『[[日本書紀]]』において[[建部氏]]の祖である[[倉見別王]]と共に[[麛坂皇子]]、[[忍熊皇子]]側につき、[[神功皇后]]・[[応神天皇]]と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰){{efn|[[吉師]]の祖:[[阿倍氏]]と共に[[吉志舞]]を舞った配下の[[難波吉師]]と同じ氏かは不詳。}}として登場する。戦いに敗れた後、『古事記』では海上に出て忍熊王と共に歌を歌って海に入水したとあり、『日本書紀』では忍熊皇子と共に歌を詠み、瀬田の渡りに沈んだとされる。


両書の記述から五十狭茅宿禰はこの時点で自決したものと見られるが、『日本書紀』神功皇后摂政紀では神功皇后の命令で[[稚日女尊]]を活田長狭国に祀ったとある。
両書の記述から五十狭茅宿禰はこの時点で自決したものと見られるが、『日本書紀』神功皇后摂政紀では神功皇后の命令で[[稚日女尊]]を活田長狭国に祀ったとある。

2021年7月12日 (月) 20:14時点における版

 
五十狭茅宿禰
時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明
別名 伊狭知直、伊佐比宿禰、海上五十狭茅
官位 上海上国造
主君 仲哀天皇神功皇后
氏族 出雲臣同祖、武蔵国造支流
父母 父:忍立毛比命、一説:兄多毛比命
兄弟 一説:荒田比宿禰大鹿国直穴倭古直大八木直
長止古直久都伎直武多乃直彦狭知直
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海上五十狭茅(うながみのいさち)とは、古墳時代豪族上海上国造の一人。『日本書紀』神功皇后摂政紀では五十狭茅宿禰、『国造本紀』では伊狭知直、『古事記』では伊佐比宿禰と表記される。

概要

古事記』及び『日本書紀』において建部氏の祖である倉見別王と共に麛坂皇子忍熊皇子側につき、神功皇后応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰)[注釈 1]として登場する。戦いに敗れた後、『古事記』では海上に出て忍熊王と共に歌を歌って海に入水したとあり、『日本書紀』では忍熊皇子と共に歌を詠み、瀬田の渡りに沈んだとされる。

両書の記述から五十狭茅宿禰はこの時点で自決したものと見られるが、『日本書紀』神功皇后摂政紀では神功皇后の命令で稚日女尊を活田長狭国に祀ったとある。

先代旧事本紀国造本紀では胸刺国造の祖としている他、『諸系譜』では初代上海上国造としており、息子として上海上国造の長止古直下海上国造の祖・久都伎直千葉国造の祖・武多乃直が挙げられている[1]。この三人の時代に三国に分離しているため、五十狭茅宿禰が香坂王忍熊王の反乱に加担して敗北し、それによって応神朝に海上国造の領域が分割されたと見る説がある[2]

名前の五十(い、いと、いそ 等)の部分は皇室関係の古い名に散見されるが、意味は不詳。

海上五十狭茅の子孫は、海上氏から、やがて村田家などの名字を称するようになる。

系譜

父は初代武蔵国造の兄多毛比命(大多毛比)で、兄弟に武蔵国造の荒田比宿禰、初代菊麻国造大鹿国直、初代大島国造の穴倭古直、初代伯岐国造の大八木直がいる。

子には吉士の祖・長狭知直、初代千葉国造の武多乃直、初代下海上国造の久都伎直、上海上国造の長止古直がいる。

脚注

注釈

  1. ^ 吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳。

出典

  1. ^ 中田憲信「東国諸国造系図」『諸系譜』第一冊。
  2. ^ 宝賀寿男「第二章 越と阿倍氏族」『越と出雲の夜明け』法令出版、2008年。

関連項目