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「ボレスワフ2世 (ポーランド王)」の版間の差分

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しかし1079年、敵対していたクラクフ司教[[シュツェパノフのスタニスラウス|スタニスワフ]]を、[[ミサ]]を挙げているところを捕らえ殺害した。これが発端となって国を追われ、妻子を連れて[[ハンガリー王国]]へ亡命した。1082年頃に死んだと伝えられているが、埋葬場所は現在も不明である。
しかし1079年、敵対していたクラクフ司教[[シュツェパノフのスタニスラウス|スタニスワフ]]を、[[ミサ]]を挙げているところを捕らえ殺害した。これが発端となって国を追われ、妻子を連れて[[ハンガリー王国]]へ亡命した。1082年頃に死んだと伝えられているが、埋葬場所は現在も不明である。


弟のヴワディスワフ1世が即位したが、王ではなく公としてであった。ポーランド王位の復活は216年後の[[1295年]]、[[プシェミスウ2世]]が即位した時であった。
弟のヴワディスワフ1世が即位したが、王ではなく公としてであった。ポーランド王位の復活は216年後の[[1295年]]、[[プシェミスウ2世 (ポーランド王)|プシェミスウ2世]]が即位した時であった。


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{{ポーランド君主一覧|1058年 - 1079年}}

2021年7月17日 (土) 21:48時点における版

ボレスワフ2世
Bolesław Śmiały
ポーランド王
在位 1076年 - 1079年
戴冠式 1076年12月25日 グニェズノ大聖堂

出生 1042年
ポーランド王国
死去 1081/2年
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ケルンテン公領、オッシアッハ修道院?
配偶者 ヴィシェスラヴァ・スヴャトスラヴナ
子女 ミェシュコ
家名 ピャスト家
父親 カジミェシュ1世
母親 ドブロネガ・ウラジミロヴナ
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ボレスワフ2世Bolesław Śmiały, 1042年 - 1081/2年)は、ポーランド王(在位:1076年 - 1079年)。1058年から1076年まではポーランド公であった。『大胆王』、『冷酷王』とも呼ばれた。カジミェシュ1世キエフ大公マリアの息子でヴワディスワフ1世ヘルマンの兄。

生涯

後世、ピャスト家出身の君主の中でも有能な人物と評された。治世の間は国中に教会を建て、1075年にはグニェズノ司教座を再設置した。ベネディクト会派修道院を、ヴロツワフルブリンモギルノに建てた。また、ポーランド初の硬貨鋳造が行われた。

しかし1079年、敵対していたクラクフ司教スタニスワフを、ミサを挙げているところを捕らえ殺害した。これが発端となって国を追われ、妻子を連れてハンガリー王国へ亡命した。1082年頃に死んだと伝えられているが、埋葬場所は現在も不明である。

弟のヴワディスワフ1世が即位したが、王ではなく公としてであった。ポーランド王位の復活は216年後の1295年プシェミスウ2世が即位した時であった。