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「フランス・ポーランド同盟 (1524年-1525年)」の版間の差分

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'''フランス・ポーランド同盟'''(フランス・ポーランドどうめい、{{lang-fr-short|Alliance franco-polonaise}})は、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]とポーランド王[[ジグムント1世|ジグムント1世スタルィ]]の間で、[[1524年]]に締結された同盟<ref name="Setton312">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=EgQNAAAAIAAJ&pg=PA312 |title=The Papacy and the Levant (1204-1571) |first=Kenneth M.|last=Setton|page=312 |publisher=American Philosophical Society |year=1976|isbn=9780871691613}}</ref>。
'''フランス・ポーランド同盟'''(フランス・ポーランドどうめい、{{lang-fr-short|Alliance franco-polonaise}})は、フランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]とポーランド王[[ジグムント1世 (ポーランド王)|ジグムント1世スタルィ]]の間で、[[1524年]]に締結された同盟<ref name="Setton312">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=EgQNAAAAIAAJ&pg=PA312 |title=The Papacy and the Levant (1204-1571) |first=Kenneth M.|last=Setton|page=312 |publisher=American Philosophical Society |year=1976|isbn=9780871691613}}</ref>。


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フランソワ1世は[[中央ヨーロッパ]]において[[ハプスブルク家]]の[[神聖ローマ皇帝]][[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]に対抗するための同盟相手を探していた<ref name="Setton312" />。ジグムント1世の王妃でイタリア出身の[[ボナ・スフォルツァ]]は[[ミラノ公国]]を奪回するために同盟に前向きだった<ref name="Halecki">{{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=N883AAAAIAAJ&pg=RA1-PA309 |title=The Cambridge History of Poland|first=Oskar|last=Halecki|page=309|isbn=9781001288024}}</ref>。カール5世が[[モスクワ大公国]]に接近したため、ジグムント1世自身もポーランドが二正面作戦を強いられる可能性を考えて同盟を支持した<ref name="Halecki" />。

2021年7月17日 (土) 21:58時点における最新版

フランス・ポーランド同盟(フランス・ポーランドどうめい、: Alliance franco-polonaise)は、フランス王フランソワ1世とポーランド王ジグムント1世スタルィの間で、1524年に締結された同盟[1]

フランソワ1世は中央ヨーロッパにおいてハプスブルク家神聖ローマ皇帝カール5世に対抗するための同盟相手を探していた[1]。ジグムント1世の王妃でイタリア出身のボナ・スフォルツァミラノ公国を奪回するために同盟に前向きだった[2]。カール5世がモスクワ大公国に接近したため、ジグムント1世自身もポーランドが二正面作戦を強いられる可能性を考えて同盟を支持した[2]

同盟交渉は1524年にアントニオ・リンコン英語版、続いてヒエロニムス・ワスキ英語版によって行われた[1]。フランスとポーランドが締結した協定は、フランソワ1世の次男オルレアン公アンリがジグムント1世の娘と、ジグムント1世の長男がフランソワ1世の娘と結婚することを規定した[1]。また、ジグムント1世はボナ・スフォルツァとの結婚によりミラノにいくらかの権利を有したが、フランソワ1世によるミラノの再征服を支持すべきとした[1]。同盟は実質的には1524年に開始した[2]

しかし、1525年にフランソワ1世がパヴィアの戦いで捕虜になると、同盟は崩壊した[1]。1526年以降、フランソワ1世が中央ヨーロッパで再び同盟相手を探すとき、彼は代わりにハンガリー王国に注目するようになり、1528年にはサポヤイ・ヤーノシュフランス・ハンガリー同盟英語版を締結した[1]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g Setton, Kenneth M. (1976). The Papacy and the Levant (1204-1571). American Philosophical Society. p. 312. ISBN 9780871691613. https://books.google.com/books?id=EgQNAAAAIAAJ&pg=PA312 
  2. ^ a b c Halecki, Oskar. The Cambridge History of Poland. p. 309. ISBN 9781001288024. https://books.google.com/books?id=N883AAAAIAAJ&pg=RA1-PA309